2005年2月17日木曜日

ヤンキー先生

■ヤンキー先生 母校を辞める(スポニチ)
 テレビドラマ「ヤンキー母校に帰る」のモデルになった“ヤンキー先生”こと義家弘介さん(33)が、北星学園余市高校(北海道余市町)を3月末に退職することが15日、分かった。自身のホームページ(HP)で明らかにしたもので、講演などの活動に批判的な声があがり、周囲との連携が取れなくなったことを打ち明けている。今後については白紙という。
 「ヤンキー先生」の存在をはじめて知ったのは、NHKの特番だっけか。「感動物語」ではあったけど。

■その後、「ヤンキー先生」は有名になり、「ヤンキー母校に帰る」がドラマ化されたあたりで、ちょっと奇妙な方向に行きだしたなと思ったものだ。本人が意図したかどうかは定かではないが、何か『GTO』的な祭り上げられ方なんだ。

■春には同タイトルの著書を映画化した「不良少年の夢」が公開予定で、少年時代から母校の教諭になるまでが描かれる…らしい。ま、こちらは冷や水を浴びせられた格好だが。

■社会に適応できない「ヤンキー」が、更正して、人の道を説く「熱血教師」になる…社会にとってこれほど都合のよい人物像はそうそうあるもんじゃない。だから、良くも悪くも祭り上げられ、人々は言うのだ…「この人を見よ」、と。

■ってかさ、スケジュール管理している会社があるってことをニュース記事から知って、正直、引いたわ。自分では管理できないほど、過密なスケジュールなんですかね。

■扉のむこうより、熱を込めて−ヤンキー先生 義家弘介の教育コラム「告白」
「学校は義家に何もいえなくなってしまっている」「北星余市は義家におんぶにだっこだ」「義家は学校を休んで講演ばかりして金儲けをしている」などといった事実とはまったく反する声が去年の秋ぐらいから一部の寮やPTAのOBたちからあがるようになった。そして,子どもを遠くから見守っている親たちは,そんな声に敏感に反応した。同時に教師集団の中からも「講演会や執筆活動は全てやめろ。そうでなければ教師集団の一人としてはやっていけない」「相当額の印税が義家の元に入っているはず。それは副業だ!」などの厳しい意見が出されるようになった。聞きながら…泣きそうになった。母校存続のために全てを犠牲にして行ってきたことは,危機が回避された途端,負の感情となって私に降りかかってきた。何よりも大切なはずの北星余市高校教育の根幹は,私を中心に大きく揺れてしまった。

 もし私が企業人だったならば,このような妬みにも似た声と徹底的に戦う道を迷わず選んだだろう。しかし,私は教師である。学校とは『生徒たち』のためにこそある。今,目の前にいる子どもたちが不安の中にいればいるほど教師集団,PTA,彼らを受け入れてくれている地域(寮・下宿)は,総力を結集し,団結して彼らと向き合わなくてはならない。自らの思い入れやプライドのために,団結を曇らせるわけにはいかないのだ。共に教育活動を行う者たちが『大人の都合』で揺れたとき,目の前の生徒たちの未来は必ず揺れる…。
 「妬みにも似た声」って、「どんだけ天狗なんだよ」ってツッコミたくもなる。ってのも、この「妬みにも似た声」こそが、核心を突いている部分もあるわけなんで、それを「妬み」と一蹴してはいかんでしょ。

■ま、中傷っぽいのを意図的に選別してきたのかもしれないけどさ、「ヤンキー先生」が答えなきゃいけないのは「講演会や執筆活動によって、本業の方をおろそかにしてませんか?」「そんな余力があるのならば、生徒の指導に全力を傾けて欲しい」って声じゃないのか。

■文句を言ってくる人がいるから辞めます…ゴタゴタは生徒に悪影響を与えるんで、生徒ののために辞めます…ってんじゃぁ、ちょっとね。自分だけいい子ぶりっ子してません?

■確かに、北星余市高校にとってはこの宣伝効果はすごいものだったろうし、全国的規模で励ましや勇気を与えたわけだろうから、その意義は大きい。しかし、生徒の親たちからすれば、先に出した疑問は当然出てくるものじゃなかろうか。ましてこの学校の性質を考えれば、親にとっては切実な問題であったはずだ。

■まぁ、生徒がどう思ってるかってのも無視できないことではあるが。どうなんだろね、ほんとのとこ。いい先生なのか、それとも「金儲けばっかしやがって」とか内心思われてるのか。

■ようするに、二束のわらじを許さない環境に耐えかねて、職を辞したってことでいいのかな。「ヤンキー先生」は日記で…
「俺は文筆家になるつもりも,教育評論家になるつもりもありません。そんな俺をきっと誰も求めてはいないだろう。俺はあくまでも『現場』というものにこだわってこれからも歩んでいきたいと思っています。」
とおっしゃるわけだが、傍からは「現場」を放棄した結果が今回の決断のように見えてしまうのだが。

■でも、よく自分のことがわかっているという気もするな。「現場」にいることが、彼の文章に説得力を付与するわけで、単なる物書きや評論家にならば「きっと誰も求めてはいないだろう」。もちろん、そこには奇妙な「現場」信仰があるという気もするけど。

■折衷案として、教育関係のNPOを立ち上げたり、所属するってのはどうだろう。そこから発言していくのであれば、誰も文句は言うまい。

■あっ、でも「ヤンキー先生」が使えなくなる。こりゃ痛い。


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