2002年8月31日土曜日

政治の劇場化は本当に悪いのか?/朝まで生テレビ

 月末恒例、「朝まで生テレビ」感想文。
 参加者は…
 井尻千男  (拓殖大学日本文化研究所所長,元日本経済新聞)
 川村晃司  (テレビ朝日コメンテーター)
 姜尚中   (東京大学教授<政治学)
 草野厚   (慶応大学教授<政治学)
 熊代昭彦  (自民党・衆議院議員,内閣府副大臣)
 小宮山洋子 (民主党・参議院議員,元NHK)
 服部孝章  (立教大学教授<マスコミ論)
 ばばこういち(放送ジャーナリスト)
 二木啓孝  (「日刊ゲンダイ」ニュース編集部長)
 八木秀次  (高崎経済大学助教授)
 山本一太  (自民党・参議院議員)
 宮崎哲弥  (評論家)
 ワイドショー政治、劇場型政治、テレビ政治、ポピュリズム…メディアと政治のありがたとは…って問うらしいっす。タイトルが「政治の劇場化は本当に悪いのか?」ってんだけど、田原総一郎やテレ朝に自己批判なんてできるのかねぇ…などと思いながら、ぼーっと見た。
 結果は、あいかわらず話がバラバラ…この番組にはテーマがあって、無いようなもんだから、まぁ、仕方が無い。テーマにそっていたのは真中の数十分間だけだった。服部孝章が退屈そうにしていたじゃないか!
 番組の最初に、小泉純一郎総理の北朝鮮への訪問、東京電力の事件の二つの出来事についてやった。別に大きなニュースだからといって、朝生でやる必要も無いのにやるのだ。しかも、喋る人も、その道の専門家ではない。かつ、議論にはなっていない。
 北朝鮮の議論のときに、田原が「姜さんは一番北朝鮮に近い人だと思うけど…」と言った。まさしく、田原総一郎の偏見を如実にあらわした言動であろう。在日、あるいは左派は北朝鮮と近い…と。このオヤジ、よくもこんなバカ発言ができるもんだ。
 東電の事件について。田原の「東電はしっかりしていた企業だと思っていた」を連呼する…原発に関しては、何だかいかがわしい、と思っている人は多いはずだが、ジャーナリストたる田原さんは全くのノーマークどころか、むしろ優良企業、として認識していたらしい。これはジャーナリストとしての死の告白か?
 企業ってのはそれほど信用できるものだろうか?雪印や日本ハムだけではない。どの企業だって、都合の悪いことは隠そうとする体質があるに決まっている。情報には非対称性があるのである。一昔なら、アメリカの企業風土は透明で…とかって反論がきそうだが、その反論に応える必要性も今はない。
 だからこそ、原子力という極めてリスクのあるエネルギーを提供している組織には、いつも神経を尖らせていないといけない。田原さんは「優良企業」で済ましてしまう。一体どこでそれを判断しているのか?まさか、電力会社という独占企業の経営状態を見て「優良」と判断したわけではあるまいな?テレビ朝日は「日本を元気にする」らしきキャンペーンをしている。それに田原総一郎が「日本には元気な企業がたくさんいる」と言っており、その元気な企業を紹介して、日本を元気にするという。一体どんな「元気な」企業か?まさか、原発事故で人々を死に追いやることができるほど元気な企業ってなレベルではあるまいな?などと心配になってくる。
 「明日からものすごい東電叩きが始まると思いますが」などとマスコミの行動を田原は皮肉っぽく(?)言っていたが、東電はいくら叩いても叩きすぎることは無いと僕は思っている。
 二木啓孝(こいつが『宗男の言い分』の著者!)が、内部告発に関して、「雪印の事件を告発した倉庫業者の社長は倉庫業法違反で仕事がない」と発言をし、内部告発して損をする仕組みになっていると指摘した。これは重要な論点だ。内部告発と犯した犯罪を比較して、内部告発の方が重大な場合は、その人は無罪にするってな結論に至ったようだが、もう少しつめて議論する必要があろう。
 どうでもいいことだが、二木氏はこの倉庫会社社長は「犯罪者を猛スピードで追っかけて、警察に突き出したら、スピード違反で処罰された」ようなものと言っていた、何回も。どうやら、この例えを得意になって言っていたようだが、単純化のしすぎである。倉庫会社の社長は既に倉庫業法違反を犯した後で、思いつめて、告発した。いわば自首をしたのに近い。一方のスピード違反は、不正を正すために違法行為をしている。
 あと、田原を始め、「これも劇場化だ」という論者がいたが、彼等の言う「劇場化」とは何だろうか?
 「テレビの前で謝罪して、劇場化だ」などという発言から察するに、テレビに映し出されることが劇場化と言っているらしい。アホか。そんなんだったら、劇場化など今に始まったことではない。今回のテーマと無理やり関連を持たせようと必死なだけである。
 以上の二つをやった後、本題に入る。
 まず、田中真紀子の辞任について、野中広務が「劇場民主主義のツケ」と発言する映像が流れされた。その後、今国会で辞職した議員や問題となった議員をずら〜っと並べたフリップを見せた。
 「政治のスキャンダルが多い」→「劇場民主主義のせい」という回路を作り出しているが、これは政治的すり替えではないか?これは個人情報保護法案バリに悪質だ。
 田中真紀子に過剰に注目がいったのは「劇場民主主義のツケ」であるが、辞めたこと自体は「劇場民主主義の功」の部分だ。辻元清美、加藤紘一、鈴木宗男…これらの議員の辞職もそう。週刊誌を発端とする政治家の犯罪がばれることは劇場民主主義の罪ではない。
 むしろ、問題の本質は、メディア嫌いの熊代議員が言うように「テレビが入ると、予算委員会の議論の内容ががらりと変わる」ことにあると思う。
 小泉内閣、あるいは田中真紀子によって、政治的関心が高まったとされるが、それがワイドショー化・大衆化をもたらした。それに迎合する政治家は「わかりやすい」ことを議論し、メディアはそれに粉飾して伝える。確かに「わかりやすさ」は重要だが、それによって見えなくなった部分は見逃すことのできない。政治的な駆け引きなどに関心を持つようになったという意味では、政治的関心が高まったのだろう。政治的関心はあくまでも政治的なのだ。しかし、それらは必ずしも、政策に興味を持つようになったわけでもない上に、政治的駆け引きにおいても感情的で一面的なものでしかない。
 我々は政策に対して素人だ。が、それでも素人なりに政策を考えてみるという作業をしなくてはならない。それが民主主義のレベルを維持する最低限の国民の務めだ。それを大衆化、ワイドショー化、劇場化に基く「政治的関心」なるものが歪めている。
 
 じゃぁ、どうするのか?
 これこそが問題であるのだが、これに関する処方箋は今のところない。いかなるエキスパートも現状に愚痴をこぼしたり、表面的な議論に終始するだけである。よくても、効果の定かでは無い啓蒙をするにとどまる。もちろん、この番組でも「べき」論ばかりだった。
 大衆化は民主主義の成熟過程とは僕にはとても思えないが、それが極まれば、次の段階に移行するかもしれない…そう願うしかないのだろうか?
 政治の劇場では「キャラ立ち」がする政治家がいい役者となれる。わかりやすく、面白いものが題材が扱われる。
 そんな劇場化でプロから素人の手に政治が行く?身近になる?「劇場化」はそれ以上の存在ではありえず、観客は観客のままだろう。わかりやすい部分だけをわかった気になって、身近なところに来たと錯覚しているにすぎない。
 観客の目は厳しくなるのか、それが問題だ
 宮崎哲弥は新聞だって黎明期があって、スキャンダル合戦をしていた。ワイドショーだって、視聴者がメディアリテラシーが芽生えたら、大丈夫、との楽観的な見通しを示した。
 田原はこれに対して、「新聞は読もうという気がないと読まない、いわば積極性がないといけない。しかし、ワイドショーは言わば、映像・音声が流れてくるメディアであり、受け身の姿勢だ」と言う。
 しかし、そうとばかりは言い切れないと思う。なぜならば、「サンデープロジェクト」や「朝まで生テレビ」はある程度の積極性を要する。ワイドショーとて同じこと。要は中身である。
 宮崎は「政治への関心」があることを前提として、「ワイドショーを見ていて、いつか気づくようになるかもしれない、そしてワイドショーの質も変わってくる」と言っている。しかし、僕にはこの前提は現在進行形で崩れていっていると思う。政治の大衆化による功の部分として「政治への関心が高まった」と言う。裏を返せば、それが無くなったらそれで終わりである。現在、この政治という劇は演者の退場や人気の低迷がおき、崩壊が始まっている。ワイドショーでは政治は完全に主役の座を失っている。
 しかし、ひょっとすると、また主役となる日が来るかもしれない。なぜなら、人々は政治劇をいつでも見ることを望み、新たな、強烈な、演者の登場を願っているからである。(有力候補として石原慎太郎東京都知事があがっていて、番組でも後半は石原論に終始したが…)
 「歴史は繰り返す 一度目は悲劇として 二度目は喜劇として」…マルクスが『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』において残した有名な言葉だ。
 はたして、二度目を迎えて、笑っていられる余裕が日本に残っているだろうか…
●姜さん、いいわ。あの諭すような喋り方。
●八木秀次が「サンプロなどにノコノコと政治家は出ていくべきではない。」「テレポリティクスと言うならばメディアを活用する気概を持て」みたいなことを発言した。これには、もちろん田原とそれに迎合する田原御用達の文化人、政治家は必死に反論。確かに八木の発言は正しい側面はある。しかし、政治家として出演する価値のあるのは、権力についていない、責任ある立場にない若手とか、高度に専門的な知識を持っている人物にとっては、サンプロは非常に利用できる。また、「メディアを利用しろ」発言は矛盾しないか?彼は田中康夫は大衆迎合として認めないだろう?
●八木は、多くの人が靖国参拝をずらしたことの信念の無さに失望した、と指摘した。これについては以前にも西尾幹二のところで、僕は指摘した。姜尚中も言ってるように「(靖国は)国民にとって大きなプライオリティーではない」し、「それは八木さんの価値観」なのである。
●ワイドショーの批判ばかりで、テレポリティクス日本代表の「田原総一郎」への批判は全くといってなかった。まぁ、しょせん限界があるぁね。ばばこういち は田原に質問を浴びせる。「政治をねじ曲げたと思うか?」「権力としての自覚は?」これに対して、田原総一郎は「政治をねじ曲げた」「総理を3人辞めさせた」と得意そうに話していた。周囲は田原を持ち上げるばかりである。「政治に透明性が増した」とか…
●熊代は「不偏不党をはずすべきだ」と言っているのには驚いた。不偏不党でないメディアを批判していたんじゃなかったっけ?法律違反だから批判していたの?本質的なところでは賛成していたとでも言うの?
●テレ朝の川村コメンテーターもたまったものではない。テレビ朝日コメンテーターという地位であるがために、ワイドショーの弁護をせにゃならん。川村は、ワイドショーってのは「田中真紀子研究」「ビンラディン研究」「イスラーム研究」をしてきたという…僕はワイドショーを政治とかを扱ってる時にはよく見るが、いつも同じようなネタをやっていただけの気がするが…
●二木はワイドショーの批判するが、コイツ自身出演するワイドショーがどれほど精巧なものなのか見てみたいもんだ。
●山本一太は「小泉首相はポピュリストではない」と言う。その根拠として「痛みを伴う構造改革」をあげる。が、それは違う。国民は利権の温床となった公共事業に対して不満を持っていた。そこに迎合する形で小泉氏は出てきた。そこには、国民は「痛み」に耐えようという気があったのではない。「今やるべきことは?」という問いに対する国民の回答は「構造改革」ではなく「景気対策」だったのである。
●途中、田中真紀子の功罪を途中でやりだした。どうでもいいよ。それから、テレビは急に態度を変えたって指摘…前に論じたことがあるので省略。
●劇場型として、小泉純一郎と石原慎太郎が典型的な政治家だとして、石原慎太郎についてやりだした。これも以前に論じたので省略。


2002年8月25日日曜日

感動ハラスメント 24時間テレビ

■「24時間テレビ」という感動の押し付け番組についての雑文。


 いやいや…黄色いTシャツの季節というわけで、「24時間テレビ」がやって来た。

 毎年、この番組には、作られた感動とひねくれた批判が交錯する。で、私はひねくれた批判をしている部類でありまして、台風が早く来て、企画が台無しになることを願わずにはいられなかったものである。

 あの、えげつない「感動のおしつけ」がどうしても受け付けない。

 セクハラ(セクシャルハラスメント)、アルハラ(アルコールハラスメント)に次いで、カンハラ(感動ハラスメント)という概念ができてもいいんじゃないのか?

 これらはまさしく「悪の枢軸ハラスメント」でありまして、世の中から撲滅せにゃなりません。これこそが正義であります。まぁ正義ってのは不確かなもんだが、不正義ってのは比較的確かなことが多い。そして、この「24時間テレビ」は私には不正義に思えてならないのだ。


 まず、司会者が徳光和夫って時点で気に入らない。この巨人バカが司会者に選ばれる理由は、特技が「涙を自由自在に流せる」ということにあります(あと巨人への忠誠心)。「感動の押し売り」番組に適した人選だ。このバカ司会者の涙が「呼び水効果」をもたらす。製作者にとって、もってこいの司会者だ。

 近年の傾向として、盛り上げ効果を期待してか、アイドルが起用されることが多い。

 今年は去年に引き続き、モーニング娘。
 2000年はV6。
 1999年はSPEED。
 1998年はTOKIO。
 1997年はKinkiKids。

 熱狂的なファンは会場のボルテージを上げるのに便利なのであろう。

 さすがに、モーニング娘のオタクというのはカメラ映えしないせいか、あまりカメラに写されなかったが。(ってか、奴らの奇声が聞こえてくるだけでも気持ち悪いのだが)


 一番気に入らないのは、障害者をダシにして、感動をさせようという安易かつモラルのカケラもない姿勢だ。

 毎年毎年、どっかから障害者を引っ張り出してきては、試練を課して、それを乗り越えるという構図を描き、そこにタレントが茶化し程度に応援をする。障害者が一生懸命がんばっている姿を感動をさそうBGMと共に流す。

 障害者ががんばっている姿を見て心をうたれない人は恐らくそうはいないだろう(そこには自分よりも劣っている人ががんばっているという潜在的な思考があるかもしれないが)。それに目をつけた日テレは、番組制作のためにそれを悪用する。感動・視聴率稼ぎの道具として。

 視聴率こそが至上のものと考えている日テレは、日頃、障害者問題や社会問題に力を入れているのか?視聴率にならないものは作らないのが日テレじゃないか。


 昔の24時間テレビには、少しは世界の貧困問題や障害者問題などに焦点をあてて伝えようとする姿勢がみられたという。

 今ではどうか?
 ただ「お涙頂戴」路線で視聴率を取ることが至上なものとなっている。そして、その道具として、障害者は利用されている。まぁ、製作者の側は「その利用料として、集まった募金を障害者福祉のために恵んでやってるんだからいいじゃないか」と開き直っているようだ。募金する人間以上に製作者の側に「恵まれない奴らに恵んでやろう」という意識がこびりついているのだろう。

 今年、偽善・日テレの障害者メインディッシュとなったのは「日本初!車椅子でトライアスロンに挑戦」という企画の松原新さんという、不慮の事故で下半身麻痺してしまっている人。ホント、ご苦労様でした。


 次に指摘しなければならない点は、制作費(多元中継、人件費、セット・会場の費用、宣伝費…)と募金額、どちらが多いのか、ということだ。素人考えでも制作費が募金を圧倒していることがわかる。

 制作費をそのまま募金した方がよっぽどマシのように思える。

 それに、「24時間テレビ」の時間の間、日テレが電波を流さないほうが、テレビ局、家庭が使う電気の節約にもなる。さらには、番組による夜更かしをする人も減り、次の日も、影響なく、仕事、勉強、遊び、に有意義な時間を過ごせるだろう。
 「愛は地球を救う」とは24時間テレビのキャッチフレーズだが、こっちの方が、よっぽど地球にやさしく、地球を救っている。

 話は戻して…それでは、その膨大な制作費はどうやって埋め合わせするのか、というと「チャリティー企業」なるものからの広告費でまかなわれる。
 頻繁に流れるコマーシャル。特に、番組後半は嫌になるくらいCMが流れていた。視聴率が取れている時は、当然CM料も高いのだ。この時間、儲けどきなのである(規定回数を消費するためにラストで帳尻合わせしているって事情もあるだろう)。

 企業は、そんなに「チャリティー」したけりゃ日テレを経由せずに直接、寄付すればいいではないか?

 だいたい、企業ってのは大きくなればなるほど、利潤を追求しなきゃならんから、営利目的じゃなきゃ動かない。「募金します」って行為だけで何か魂胆があるのだ。そんな「ちゃりてぃ〜企業」が「チャリティーしてまっせ」ってな顔で、ガンガン宣伝流されたんじゃたまったものではない。

 日テレは「チャリティー」という冠を付けることで、スポンサーを獲得しやすいだろうし、あるいは、通常よりも上乗せして広告料を取っているのかもしれない。
 日テレは「愛は地球を救う」などという慈愛心に満ちた番組を作っていると見せかけて、普通の番組を作っているだけだ。いや、利益はもしかすると、いつも以上にあるかもしれない。しかも日テレは「チャリティーしてまっせ」っというわけでイメージアップにもつながる。

 まさしく「ちゃりてぃ〜日テレ」と「ちゃりてぃ〜企業」の共益状態だ。視聴者はどんな思惑があるにせよ、「チャリティー」という行為をしている。自腹切って、募金しており、「24時間テレビ」によって、現実に損害が出ている。
 しかし、「ちゃりてぃ〜日テレ」と「ちゃりてぃ〜企業」は違う。奴らにとって、痛いことなど、何一つない。あるのは利益だけである。
 企業は、広告料(名目上は寄付金?)から、「宣伝」と「イメージアップ」という見返りを差し引いて、どれだけ損害をこうむったというのか?

 24時間テレビが終わると、日テレは、「皆様から預かった募金に日本テレビからの寄付金を上乗せして、○○に寄付した」ってな発表がある。よっほど、「みなさ〜ん、私たちも、自腹を切って寄付しました」と言いたいんだろう。
 が、その寄付金は「ちゃりてぃ〜企業」からの広告料の一部ではないか?
 「自腹切りました」の真実は、「今回の“24時間テレビ”による利益の一部を、後ろめたいから、仕方なく寄付させてもらいます。」である。

 「ちゃりてぃ〜中毒」の日テレさんよ、日本テレビは「国産」として偽装行為をした雪印や日本ハムを「消費者に対する侮辱」と報道しているが、自分とこだって、「チャリティー偽装」して、「視聴者に対する侮辱」をしているじゃないか?

 しかし、一方は裁かれるが、他方は裁かれることはない。この「ちゃりてぃ〜」…もはや悲劇を通り越して、喜劇である。


 そして、募金だって、それほどきれいなものでもない。

 これはボランティアをした子に聞いた話だが、募金する人たちは会場では芸能人やテレビ中継がくるまで待機していたりする。芸能人も、中継のときに、ボランティアの子がやっているところをどかして、さもず〜とやってますってな顔をして、募金者と気さくに握手する。

 武道館に「応援に駆けつけてくれましたぁ〜」芸能人は、ビンとか貯金箱に入れられた小銭を寄付する。

 が、こんな不自然なことがあるだろうか?

 稼ぎが多い芸能人がセコセコと小銭を貯めてました、なんて設定無理がある。番組としては、視聴者が自分たちの寄付額があまりにも少なく、無力感を覚えることを恐れて、事前に用意した小銭を芸能人に渡すという演出をしているのであろう。番組としては募金額も大事だが、それ以上に、今後とも“都合のよい”視聴者であり続けることの方が大事なのである。これは、札束をドンと出すことは好感度を下げるだろうから、芸能人サイドの意向にも沿うものだ。


 さて、それから、マラソンである。

 毎年、毎年、よくも懲りずにやるもんだ。第一、何で走っているか全く意味がわからない。

 もはや、ヤケッパチになって、マラソン企画を続けているとしか思えない。マラソンに無理やり、特別な意味を持たせて、それを感動の物語にでっち上げる。「がんばれ〜」と視聴者に思わせる。

 今年は西村知美が走っていた。彼女に恨みは無いが、動機からしておかしいのだ。

 「自分に弱くて、根性なしの性格ですが、24時間マラソンに挑戦してその弱さを克服し、自分に自信をつけたい。」

 って何だそりゃ?

 そんなことは、勝手にやってください。何でわざわざ、こんな偽善番組に出て、汚れたマラソンせにゃならんのだ。

 途中、感動させるためのえげつないアナウンスが入る。

「153センチ42キロの体のどこからこんな力が出てきているのでしょうか?」

「このマラソンをやり遂げられたのもご主人、家族、ファンの皆様がいたからこそです。」

「23センチ小さくてやわらかい足で100キロを走りつづけて来ました」

 いったいどうしろというのか。

 徳光がすかさず、

「ある意味西尾さん(西村知美の旦那)との2人3脚ですねぇ」

 って、おいおい!

 お前ら製作者が「家族の絆」を演出するために、夫の西尾に「最後の方に迎えに行って、一緒に走ってください」って頼んだんだろうがよ!辻元清美の「ど忘れ禁止法、適用したいくらいですねぇ」という声が今にも聞こえてきそうだ。

 ご丁寧に、前振りとして、VTRでわざわざ、二人の出会いを流していたのを忘れたのだろうか。その後には、二人の思いでの曲である、さだまさしの『奇跡』をダンナは熱唱。

 アナウンス「もし西村さんが100キロを走りぬくことが出来たらそれは奇跡と呼べるのでしょうか?」

 …してやったりという感じだろうか。


 そんな演出された夫婦愛よりも、西村知美の白い上着から、スポーツブラが透けて見えたことの方が、よっぽど気になったんじゃないか。

 途中、歌を熱唱する。「でっかい宇宙に愛がある」、「負けないで」(←恒例)など…

 歌詞を聞いた上で選曲してるのだろうか。

 これに限らず応援ソングってのが挟まれるが、ただ時間調整、場つなぎとして歌を挟んでいるだけじゃねぇか。

 徳光曰く

「きっと西村さんにも届いているはずです」

 …もう、ええっちゅうねん!

 で、西村知美はまるで計ったように、番組終了の最後の最後、「サライ」を歌ってる最中にゴールしました。

 毎度のことだけど、すんげ〜演出。まぁ、単にランナーを先導する人が本部と緊密に連絡を取りつつ進めているというだけなんだが。
 疲労・痛みという名目で、休憩や減速…これらを最大限駆使し、うまいこと時間を調整している。それまで観客に手を振る余裕があったのに、ゴールに近づくと、急に足を引きずりだす。武道館に入った後はダンナに支えられて階段を降りてくる…

 アァ、スゴイ、スゴイ、ナンテキレイナ、フウフアイダロウ。



 今年、一番ツッコミを入れたのは、おデブの富士山登頂である。

 「おデブちゃんと呼ばないで!友情の富士山登山」というタイトル…デブというカッコでくくれますってだけで、どこに友情があったのかは全くわからないが、そういうことらしい。

 石塚英彦とおデブちゃん小学生が登山に挑戦という企画。

 デブだけでは、暑苦しくて絵面がキツイということなのか定かではないが、そこに、「モー娘。」の小川麻琴・新垣里沙が加えられる。

 登山の目的は、何でも、富士山に登ることを目標にしたトレーニングを通じてコンプレックスを克服すること。登山できればきっと自分に自信がつくって発想らしい。

 …これまたおかしいことを言っている。

 登頂を成功して、「デブにもこれだけのことができるんだ!」って自信をつけたり、自慢することが最終目的なのか。デブであるというコンプレックスを克服することよりも、痩せてデブではなくなることの方がよっぽど重要ではないか。丸々と太ったおデブちゃんには「午後は○○おもいっきりテレビ」でも見せて、少しは健康に気を使うようにさせた方がよい。

 石塚がキャスティングされてる時点でおかしい。コイツはデブであることで仕事を得ている特殊な人間なのだ。確かに、デブの生き様を見せ、自信をつけさすという企画の趣旨にはあっているのだろう。石塚のように、毒を吐かず、太ってて、タレ目だと「善人キャラ」に思われて、人生うまくやっていける、って教えたいのだろう。が、彼には痩せようという気は全く無いことを忘れてはならない。

 ようは、毎年恒例になっている山ネタを無理やり結び付けたいだけなのだ。だが、登山しましたってより、ダイエットを数ヶ月したりして、その成果を放送した方が、おデブちゃんのためには、よっぽどいい。

 障害者依存の番組体質の次は、デブ依存のようで、彼らに対して、優越感を持っていることがよくわかった。手法が露骨だなぁ。

 で、登頂計画の結果は、“天気が悪くて”登山失敗?(笑)

 これじゃ、何かのせいにしてダイエットを断念するデブ特有のロジックを身につけさせただけである。感動のために、デブを甘やかして、「よくやった」とは何事だ。そんなことで痩せられるなら、誰も中国製のダイエット食品の犠牲にはならない。



 …今日はこんなところです。

 あぁ…来年の「24時間テレビ」が楽しみ(って、おい!)。



��.S. まぁ正直、今年は最後の方を見て、後は番組ホームページをさらっと見ただけなんだけど。にしても、フィナーレ笑えた…えなりかずきの泣き面。こころから笑った。

 あと、雨上がり決死隊(特に宮迫)が会場全体に「知美コール」が起きてる時に、カメラが回ってきて、「と〜も〜み」と嫌々言っていたとこ。「宮迫のキャラ」と「その場の空気」との葛藤…趣がある。

 それから、谷村新司と加山雄三(ヅラ大将)も、わからないであろう歌を皆が歌ってる時に、急にカメラが来て、焦ってクチパクしだしたところも笑えた。オッサンにはわからないであろう曲なのに…その様子は、酸素を取りこむために水面で必死にパクパクしてる金魚みたい、趣がある。


24時間テレビ』(日本テレビ系列,2002年)


��追記)
「ハラスメント(harassment)」とは「嫌がらせ,悩ますこと」ぐらいの意味である。書いた当時は「ハラスメント」を「強要,押し付け」と解釈していた感がある。


2002年8月16日金曜日

社説比較/終戦記念日

今日は57回目の終戦記念日である。戦争が終わった日…
 そう言えば、例の如く、小林よしのりさんがこの言葉が気に入らない…さらに、この日はアメリカに敗れた日であり、その日から占領が始まり、戦後民主主義が…っと続けていた。そして「サヨク」がどうのこうのと愚痴をこぼす。
��彼の想定しているであろう「サヨク」では現在は反米が主流だろう?脳みそをアメリカに占領され続けているのは「ポチホシュ」ぐらいのものではないか?昔のことを持ち出して、批判しているのであれば、まずは元全共闘で、よしりん先生のご主人様である西部邁さんに一つでも噛み付いてからにして欲しい。)
 確かに終戦“記念”日というのは彼の立場からは理解できないのかもしれない。というのも、彼にとっては、アメリカに牙を抜かれた屈辱的な日であろうし、石原慎太郎さん的に言えば「去勢された日」であるかもしれない。戦争という愚かな行為をやめた記念などとはとても思えないだろからね。
 とりあえず、どんなネタでこの日を語ってんだろうってわけで、各紙の社説を拾い読み。
 全国紙の社説を見ると、「終戦記念日」は朝日新聞、毎日新聞はもちろん、産経新聞までも使用しているが、読売新聞だけが「終戦の日」だった。まぁ…別に深い意味は無いんだろうけど(日本経済新聞はそれを表現していない)
 その読売は…
“GHQの言論コントロールの下で進められた東京裁判の「文明の裁き」史観を、改めて再点検してみる時期ではないだろうか。東京裁判史観にとらわれている人たちは、しばしば、「日本一国性悪説」的な自虐史観に陥ってしまっている。”
��もちろん、この後、恒例のパール判事も登場する。)
 「東京裁判史観」への批判ってのは、何だか先ほどの「よしりん」の「サヨク」叩きに似てる。両者とも、もはやもぬけの殻となった中身のない何かに向かって、必死に攻撃している。これは自作自演に近い。
 
“戦時勤労動員だった女子挺身(ていしん)隊を「慰安婦狩り」のための制度だったかのように歴史を捏造(ねつぞう)した一部新聞のキャンペーンなどは、自虐史観の極みというべきだろう。”
 おうおう、某新聞との対決姿勢を鮮明にしている。素晴らしい。もっとやれ〜
“現在の日本では、これ(歴史的事実の直視)は決して、戦前のような軍国主義への回帰を志向することなどにはならない。それは日本国民の大多数がよく知っている。日本は、平和な国際環境と自由な通商体制なしには、国民の豊かな生活を維持できない国だ。”
 もちろん、歴史を冷静に分析することを“軍国主義への回帰”として避けることはナンセンスだ。でも、「日本国民の大多数がよく知っている」んだろうけど、有事関連法案や福田康夫官房長官の核発言、さらにはアメリカとそれに従属する小泉外交が国民にそういった危惧を与えていることも忘れちゃならん。
 さて、朝日…
“振り返れば前世紀、二つの大戦直後の混乱期にあって新たな世界秩序作りに最も貢献したのは、ほかならぬ米国だった。 第1次大戦後は国際連盟を提唱し、戦争を違法とするパリ不戦条約を推進した。第2次大戦後は国際連合創設を進めた。マーシャルプランなどで欧州や日本の復興を助けた。また、経済恐慌が大戦の導火線となった反省から、国際通貨基金(IMF)や世界銀行づくりの先頭に立ち、世界経済の安定化にも力を注いだ。”
 ここまでくると、次が予想できる。
“歴史とは皮肉である。その米国がいま国連を軽視し、国際社会の動きにしばしば水を差す。突出した軍事力を背景に一人で突っ走ろうとし、それを欧州や日本がどういさめるかが課題になっている。”
 それで、反米といった形ではないヨーロッパなどと連携をし、物言う日本へ、と主張。
 読売も朝日もオーソドックスに仕上げたもんだ。
 毎日新聞はたらたらと敗戦から豊かになった〜っと振り返り、失われた10年を再検討する。
 失われた10年…日本経済はどうしようもなくなり、医療費負担、財政赤字は深刻さを増した…しかし、失ったものはそれだけではない。
“戦後ひたすらアメリカのようになりたいとがんばった。57年もたって、ひょっとしたら今またアメリカになりたくてなれないことを「失われた」と自分をごまかしているのではないか。敗戦の記憶はアメリカの記憶でもある。それを我々はわざわざ毎年思い起こしているのかもしれない。実は失われたものなどそれほど具体的ではない。時代のキャッチフレーズに踊らされてはいけない。”
 確かにそうかもしれない。でも、「失われた10年」なるキャッチフレーズを押し付け、踊りを強要したのはメディアではなかったのか?そこらへんはっきしさせとくれ。
“57年前の8月15日、何もなくなった日本で彼らは何を思いどうしようとしたのか、そこに思いをいたしそれに比べ何でもありすぎる今、我々はどうなるのかではなく、それぞれどうすればいいのか、それを考えるのが今時の8月15日ではないのだろうか。”
 これまたケツカッチン的な幕切れだ。社説であるならば、お前ら的な「どうすべきか」を語ってちょうよ。
 さて、産経…
“国に尊い命を捧(ささ)げた人々を追悼しつつ、「国のあり方」に思いを馳(は)せたい。”として、「国のあり方」として「知財立国」構想を取り上げた。
 「知財立国」構想とは“知的財産を豊富に創造する体制をつくり、これを保護・活用することにより、日本経済や文化の持続的発展を目指そうという大プランだ。「知財立国」という名称が適切か否かの議論はあろうが、要は頭脳や高い先端技術力など日本の知的資源を活かした国づくりに全体としてシフトしていこうという発想”らしい。
 保守とリベラル、改革派と守旧派など政治的立場の違いが「国のあり方」を論じるのに障害となってきたが、これならば大きな対立はおきない。
 まぁ、よく言われることであるけど、具体的に何すんの?
“「国のあり方」は政治家に委ねておけば、それでいいというものではない。思想家・知識人に期待したり、あるいはその知的怠慢に責任を帰せばそれですむというものでもない。国民一人ひとりが思慮をめぐらすべき問題である。”
“十五日は戦没者を思い、戦前・戦後の来し方を考えると同時に、夢のある日本の行く末にも個々人が英知をしぼる格好の機会である。”
 …で、産経的にその英知をしぼった結果が“「知財立国」に即していえば、付加価値づくりを考える。たとえば近隣諸国のみならず、各国からも若い人材を呼んで育てる国立高等教育システムを加えるのはどうだろう。”
 …なるほど、この議論が前に進まない理由が何となく、わかった気がする…
 最後は日経。お題目は“「敗戦」から何も学び取らない国の悲劇”。太平洋戦争の敗戦から57年が過ぎたが、われわれはあの敗戦から、教訓として学んだものは何もない、“半世紀もの間、何故に日本が戦争への道をひた走ったのか、そして何故に敗れたのかを検証することをひたすら避けてきた”と言う。
 戦争について考えることは、国内的には左右両陣営の不毛の論争に火をつけるだけであり、外交的にはアジアの隣国から「誤った歴史観」として非難を浴びる余地を生み出すだけだった。真正面から歴史と向かい合うことをせず、過去から何も教訓として得ることなくきた。そして、“日本はいまもまた同じような過ちを繰り返している。太平洋戦争敗戦に至る過程と、今日の日本が「第2の敗戦」とも言うべき衰退の道をたどっている経緯を比較分析すると驚くほど似ている。”
 そして永野護という人の「敗戦真相記」を引用し、次のように述べる。
“永野の主張の特徴は敗戦の最大の責任は軍部よりもむしろそのような方向へと導いていった官僚機構全体にあるとしている点だ。”
 “永野が嘆いてから半世紀以上もたつのに、官僚跋扈(ばっこ)の社会システムは根本的には何ら変わっていない。官僚は国や社会のためよりは、保身を優先しがちである。その官僚機構を壊すために、人材飢饉の政治家が徒手空拳で立ち向かって、ことごとく轟沈(ごうちん)していくさまは、あのころと変わらない。”
 そして、次のように締めくくる。
“歴史を直視し、そこから教訓を得ようとしない人々や、そういう人々が構成する社会・国家は進歩しない。次世代に引き継ぐためにも3度同じてつを踏む愚は繰り返すまい。”
 ようは、「第二の敗戦」と呼ばれる今日の経済危機は相も変らぬ官僚機構が招いたものであり、それを打破しない限り、次なる敗戦を迎える、と言いたいようだ。
 何とも回りくどく、そして強引に結論付けるものだ。8月15日という特別な日…日経には他に語るべきことは無かったのだろうか…
 地方紙の社説は「不戦の誓い」と「次世代に語り継ぐ」とか「アメリカの暴走と小泉政権のアメリカ追従は問題」といった朝日新聞的なものが多かった。
 以外にも、というか、当然…というべきか、靖国神社(あるいは国立追悼施設)について語る新聞はほとんど見うけられない。首相が行く、行かない、でこれほど静かになるとは…(いい意味でも、悪い意味でも)


2002年8月3日土曜日

人気虐待アニメ「ポケモン」

��ポケットモンスターに関して、詳しい知識がないのに勢いで書いてしまった雑文。ゲームとアニメをやや混同している文章)


 今日、TVで、ポケモンの映画らしきものがやってました。

 今からずいぶん前、ポケモンが流行るちょっと前に、ゲームをやらしてもらったことがあった。で、その時から、ず〜っと、「これって虐待じゃないの?」って思っている。

 そもそも、この主人公の目的ってのが「一番のポケモンマスターになること」という野心的な目標で、その自己目的達成のためにピカチュウ(すぐに放電し、攻撃する狂暴、凶悪な電気ネズミ)などのポケモンを酷使するのである。

 一応、ロケット団なる悪の組織が登場するが、これを倒すことが主人公の最終目的ではない。しかも、やっていることの残虐さはロケット団も主人公も変わらない。「ロケット団を悪の組織であり、それと戦う主人公は善」というように、主人公の場合は美化されているだけである。

 そして、ポケモンを手に入れるにはモンスターボールというものを野生のポケモンに投げつけて、捕獲しなければならない。しかも、正常のポケモンは元気がいいため、痛めつけないと捕獲できない。
 だから、主人公は既にひっとらえて、洗脳・調教したポケモンを利用し、攻撃させ、野生のポケモンを再起不能になるほど痛めつけてから捕獲する。そして、モンスターボールを投げつけて、ポケモンの意志など関係なく、自分の私利私欲のために働く下僕ポケモンにすべく、洗脳するのである。
 その時の主人公セリフが「○○ゲットだぜ!」と喜ぶのである。こらこら!ゲットだぜ、じゃないだろ…乱獲だ!乱獲!お前は自分のやっていることがわかっているのか!
 もちろん、人間はポケモンとは一切戦わない。自分の下僕ポケモンに命令するだけである。「ガンバレ!」とか言ってしまうのである…これはもう、「お前はその10万倍がんばって戦え!」と言う以外ない。(がんばったらいかんか…)


 さらには、どちらが強いポケモンを育てたか、とかいう人間同士のメンツの張り合いやトレーナーの資質の証明(?)のために、これまた乱獲したポケモンを私利私欲、メンツのために闘わせる。必死に戦ってるポケモンに対して、自分のメンツがかかってるために人間も必死で高みの見物をする。
 これは人々の見世物となっているケースが多いから、さらに残酷だ。

 主人公らはまだ子供であるが、全く末恐ろしいガキ供である。

 そして、自己中で、残虐なポケモンに熱狂し、「ゲットだぜ!」と無邪気に喜ぶ子供たちが、成人して恐ろしい大人像を私は想像してしまう。そして、私は、日本…いや、世界の未来を憂う。