2002年8月16日金曜日

社説比較/終戦記念日

今日は57回目の終戦記念日である。戦争が終わった日…
 そう言えば、例の如く、小林よしのりさんがこの言葉が気に入らない…さらに、この日はアメリカに敗れた日であり、その日から占領が始まり、戦後民主主義が…っと続けていた。そして「サヨク」がどうのこうのと愚痴をこぼす。
��彼の想定しているであろう「サヨク」では現在は反米が主流だろう?脳みそをアメリカに占領され続けているのは「ポチホシュ」ぐらいのものではないか?昔のことを持ち出して、批判しているのであれば、まずは元全共闘で、よしりん先生のご主人様である西部邁さんに一つでも噛み付いてからにして欲しい。)
 確かに終戦“記念”日というのは彼の立場からは理解できないのかもしれない。というのも、彼にとっては、アメリカに牙を抜かれた屈辱的な日であろうし、石原慎太郎さん的に言えば「去勢された日」であるかもしれない。戦争という愚かな行為をやめた記念などとはとても思えないだろからね。
 とりあえず、どんなネタでこの日を語ってんだろうってわけで、各紙の社説を拾い読み。
 全国紙の社説を見ると、「終戦記念日」は朝日新聞、毎日新聞はもちろん、産経新聞までも使用しているが、読売新聞だけが「終戦の日」だった。まぁ…別に深い意味は無いんだろうけど(日本経済新聞はそれを表現していない)
 その読売は…
“GHQの言論コントロールの下で進められた東京裁判の「文明の裁き」史観を、改めて再点検してみる時期ではないだろうか。東京裁判史観にとらわれている人たちは、しばしば、「日本一国性悪説」的な自虐史観に陥ってしまっている。”
��もちろん、この後、恒例のパール判事も登場する。)
 「東京裁判史観」への批判ってのは、何だか先ほどの「よしりん」の「サヨク」叩きに似てる。両者とも、もはやもぬけの殻となった中身のない何かに向かって、必死に攻撃している。これは自作自演に近い。
 
“戦時勤労動員だった女子挺身(ていしん)隊を「慰安婦狩り」のための制度だったかのように歴史を捏造(ねつぞう)した一部新聞のキャンペーンなどは、自虐史観の極みというべきだろう。”
 おうおう、某新聞との対決姿勢を鮮明にしている。素晴らしい。もっとやれ〜
“現在の日本では、これ(歴史的事実の直視)は決して、戦前のような軍国主義への回帰を志向することなどにはならない。それは日本国民の大多数がよく知っている。日本は、平和な国際環境と自由な通商体制なしには、国民の豊かな生活を維持できない国だ。”
 もちろん、歴史を冷静に分析することを“軍国主義への回帰”として避けることはナンセンスだ。でも、「日本国民の大多数がよく知っている」んだろうけど、有事関連法案や福田康夫官房長官の核発言、さらにはアメリカとそれに従属する小泉外交が国民にそういった危惧を与えていることも忘れちゃならん。
 さて、朝日…
“振り返れば前世紀、二つの大戦直後の混乱期にあって新たな世界秩序作りに最も貢献したのは、ほかならぬ米国だった。 第1次大戦後は国際連盟を提唱し、戦争を違法とするパリ不戦条約を推進した。第2次大戦後は国際連合創設を進めた。マーシャルプランなどで欧州や日本の復興を助けた。また、経済恐慌が大戦の導火線となった反省から、国際通貨基金(IMF)や世界銀行づくりの先頭に立ち、世界経済の安定化にも力を注いだ。”
 ここまでくると、次が予想できる。
“歴史とは皮肉である。その米国がいま国連を軽視し、国際社会の動きにしばしば水を差す。突出した軍事力を背景に一人で突っ走ろうとし、それを欧州や日本がどういさめるかが課題になっている。”
 それで、反米といった形ではないヨーロッパなどと連携をし、物言う日本へ、と主張。
 読売も朝日もオーソドックスに仕上げたもんだ。
 毎日新聞はたらたらと敗戦から豊かになった〜っと振り返り、失われた10年を再検討する。
 失われた10年…日本経済はどうしようもなくなり、医療費負担、財政赤字は深刻さを増した…しかし、失ったものはそれだけではない。
“戦後ひたすらアメリカのようになりたいとがんばった。57年もたって、ひょっとしたら今またアメリカになりたくてなれないことを「失われた」と自分をごまかしているのではないか。敗戦の記憶はアメリカの記憶でもある。それを我々はわざわざ毎年思い起こしているのかもしれない。実は失われたものなどそれほど具体的ではない。時代のキャッチフレーズに踊らされてはいけない。”
 確かにそうかもしれない。でも、「失われた10年」なるキャッチフレーズを押し付け、踊りを強要したのはメディアではなかったのか?そこらへんはっきしさせとくれ。
“57年前の8月15日、何もなくなった日本で彼らは何を思いどうしようとしたのか、そこに思いをいたしそれに比べ何でもありすぎる今、我々はどうなるのかではなく、それぞれどうすればいいのか、それを考えるのが今時の8月15日ではないのだろうか。”
 これまたケツカッチン的な幕切れだ。社説であるならば、お前ら的な「どうすべきか」を語ってちょうよ。
 さて、産経…
“国に尊い命を捧(ささ)げた人々を追悼しつつ、「国のあり方」に思いを馳(は)せたい。”として、「国のあり方」として「知財立国」構想を取り上げた。
 「知財立国」構想とは“知的財産を豊富に創造する体制をつくり、これを保護・活用することにより、日本経済や文化の持続的発展を目指そうという大プランだ。「知財立国」という名称が適切か否かの議論はあろうが、要は頭脳や高い先端技術力など日本の知的資源を活かした国づくりに全体としてシフトしていこうという発想”らしい。
 保守とリベラル、改革派と守旧派など政治的立場の違いが「国のあり方」を論じるのに障害となってきたが、これならば大きな対立はおきない。
 まぁ、よく言われることであるけど、具体的に何すんの?
“「国のあり方」は政治家に委ねておけば、それでいいというものではない。思想家・知識人に期待したり、あるいはその知的怠慢に責任を帰せばそれですむというものでもない。国民一人ひとりが思慮をめぐらすべき問題である。”
“十五日は戦没者を思い、戦前・戦後の来し方を考えると同時に、夢のある日本の行く末にも個々人が英知をしぼる格好の機会である。”
 …で、産経的にその英知をしぼった結果が“「知財立国」に即していえば、付加価値づくりを考える。たとえば近隣諸国のみならず、各国からも若い人材を呼んで育てる国立高等教育システムを加えるのはどうだろう。”
 …なるほど、この議論が前に進まない理由が何となく、わかった気がする…
 最後は日経。お題目は“「敗戦」から何も学び取らない国の悲劇”。太平洋戦争の敗戦から57年が過ぎたが、われわれはあの敗戦から、教訓として学んだものは何もない、“半世紀もの間、何故に日本が戦争への道をひた走ったのか、そして何故に敗れたのかを検証することをひたすら避けてきた”と言う。
 戦争について考えることは、国内的には左右両陣営の不毛の論争に火をつけるだけであり、外交的にはアジアの隣国から「誤った歴史観」として非難を浴びる余地を生み出すだけだった。真正面から歴史と向かい合うことをせず、過去から何も教訓として得ることなくきた。そして、“日本はいまもまた同じような過ちを繰り返している。太平洋戦争敗戦に至る過程と、今日の日本が「第2の敗戦」とも言うべき衰退の道をたどっている経緯を比較分析すると驚くほど似ている。”
 そして永野護という人の「敗戦真相記」を引用し、次のように述べる。
“永野の主張の特徴は敗戦の最大の責任は軍部よりもむしろそのような方向へと導いていった官僚機構全体にあるとしている点だ。”
 “永野が嘆いてから半世紀以上もたつのに、官僚跋扈(ばっこ)の社会システムは根本的には何ら変わっていない。官僚は国や社会のためよりは、保身を優先しがちである。その官僚機構を壊すために、人材飢饉の政治家が徒手空拳で立ち向かって、ことごとく轟沈(ごうちん)していくさまは、あのころと変わらない。”
 そして、次のように締めくくる。
“歴史を直視し、そこから教訓を得ようとしない人々や、そういう人々が構成する社会・国家は進歩しない。次世代に引き継ぐためにも3度同じてつを踏む愚は繰り返すまい。”
 ようは、「第二の敗戦」と呼ばれる今日の経済危機は相も変らぬ官僚機構が招いたものであり、それを打破しない限り、次なる敗戦を迎える、と言いたいようだ。
 何とも回りくどく、そして強引に結論付けるものだ。8月15日という特別な日…日経には他に語るべきことは無かったのだろうか…
 地方紙の社説は「不戦の誓い」と「次世代に語り継ぐ」とか「アメリカの暴走と小泉政権のアメリカ追従は問題」といった朝日新聞的なものが多かった。
 以外にも、というか、当然…というべきか、靖国神社(あるいは国立追悼施設)について語る新聞はほとんど見うけられない。首相が行く、行かない、でこれほど静かになるとは…(いい意味でも、悪い意味でも)


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