2002年8月31日土曜日

政治の劇場化は本当に悪いのか?/朝まで生テレビ

 月末恒例、「朝まで生テレビ」感想文。
 参加者は…
 井尻千男  (拓殖大学日本文化研究所所長,元日本経済新聞)
 川村晃司  (テレビ朝日コメンテーター)
 姜尚中   (東京大学教授<政治学)
 草野厚   (慶応大学教授<政治学)
 熊代昭彦  (自民党・衆議院議員,内閣府副大臣)
 小宮山洋子 (民主党・参議院議員,元NHK)
 服部孝章  (立教大学教授<マスコミ論)
 ばばこういち(放送ジャーナリスト)
 二木啓孝  (「日刊ゲンダイ」ニュース編集部長)
 八木秀次  (高崎経済大学助教授)
 山本一太  (自民党・参議院議員)
 宮崎哲弥  (評論家)
 ワイドショー政治、劇場型政治、テレビ政治、ポピュリズム…メディアと政治のありがたとは…って問うらしいっす。タイトルが「政治の劇場化は本当に悪いのか?」ってんだけど、田原総一郎やテレ朝に自己批判なんてできるのかねぇ…などと思いながら、ぼーっと見た。
 結果は、あいかわらず話がバラバラ…この番組にはテーマがあって、無いようなもんだから、まぁ、仕方が無い。テーマにそっていたのは真中の数十分間だけだった。服部孝章が退屈そうにしていたじゃないか!
 番組の最初に、小泉純一郎総理の北朝鮮への訪問、東京電力の事件の二つの出来事についてやった。別に大きなニュースだからといって、朝生でやる必要も無いのにやるのだ。しかも、喋る人も、その道の専門家ではない。かつ、議論にはなっていない。
 北朝鮮の議論のときに、田原が「姜さんは一番北朝鮮に近い人だと思うけど…」と言った。まさしく、田原総一郎の偏見を如実にあらわした言動であろう。在日、あるいは左派は北朝鮮と近い…と。このオヤジ、よくもこんなバカ発言ができるもんだ。
 東電の事件について。田原の「東電はしっかりしていた企業だと思っていた」を連呼する…原発に関しては、何だかいかがわしい、と思っている人は多いはずだが、ジャーナリストたる田原さんは全くのノーマークどころか、むしろ優良企業、として認識していたらしい。これはジャーナリストとしての死の告白か?
 企業ってのはそれほど信用できるものだろうか?雪印や日本ハムだけではない。どの企業だって、都合の悪いことは隠そうとする体質があるに決まっている。情報には非対称性があるのである。一昔なら、アメリカの企業風土は透明で…とかって反論がきそうだが、その反論に応える必要性も今はない。
 だからこそ、原子力という極めてリスクのあるエネルギーを提供している組織には、いつも神経を尖らせていないといけない。田原さんは「優良企業」で済ましてしまう。一体どこでそれを判断しているのか?まさか、電力会社という独占企業の経営状態を見て「優良」と判断したわけではあるまいな?テレビ朝日は「日本を元気にする」らしきキャンペーンをしている。それに田原総一郎が「日本には元気な企業がたくさんいる」と言っており、その元気な企業を紹介して、日本を元気にするという。一体どんな「元気な」企業か?まさか、原発事故で人々を死に追いやることができるほど元気な企業ってなレベルではあるまいな?などと心配になってくる。
 「明日からものすごい東電叩きが始まると思いますが」などとマスコミの行動を田原は皮肉っぽく(?)言っていたが、東電はいくら叩いても叩きすぎることは無いと僕は思っている。
 二木啓孝(こいつが『宗男の言い分』の著者!)が、内部告発に関して、「雪印の事件を告発した倉庫業者の社長は倉庫業法違反で仕事がない」と発言をし、内部告発して損をする仕組みになっていると指摘した。これは重要な論点だ。内部告発と犯した犯罪を比較して、内部告発の方が重大な場合は、その人は無罪にするってな結論に至ったようだが、もう少しつめて議論する必要があろう。
 どうでもいいことだが、二木氏はこの倉庫会社社長は「犯罪者を猛スピードで追っかけて、警察に突き出したら、スピード違反で処罰された」ようなものと言っていた、何回も。どうやら、この例えを得意になって言っていたようだが、単純化のしすぎである。倉庫会社の社長は既に倉庫業法違反を犯した後で、思いつめて、告発した。いわば自首をしたのに近い。一方のスピード違反は、不正を正すために違法行為をしている。
 あと、田原を始め、「これも劇場化だ」という論者がいたが、彼等の言う「劇場化」とは何だろうか?
 「テレビの前で謝罪して、劇場化だ」などという発言から察するに、テレビに映し出されることが劇場化と言っているらしい。アホか。そんなんだったら、劇場化など今に始まったことではない。今回のテーマと無理やり関連を持たせようと必死なだけである。
 以上の二つをやった後、本題に入る。
 まず、田中真紀子の辞任について、野中広務が「劇場民主主義のツケ」と発言する映像が流れされた。その後、今国会で辞職した議員や問題となった議員をずら〜っと並べたフリップを見せた。
 「政治のスキャンダルが多い」→「劇場民主主義のせい」という回路を作り出しているが、これは政治的すり替えではないか?これは個人情報保護法案バリに悪質だ。
 田中真紀子に過剰に注目がいったのは「劇場民主主義のツケ」であるが、辞めたこと自体は「劇場民主主義の功」の部分だ。辻元清美、加藤紘一、鈴木宗男…これらの議員の辞職もそう。週刊誌を発端とする政治家の犯罪がばれることは劇場民主主義の罪ではない。
 むしろ、問題の本質は、メディア嫌いの熊代議員が言うように「テレビが入ると、予算委員会の議論の内容ががらりと変わる」ことにあると思う。
 小泉内閣、あるいは田中真紀子によって、政治的関心が高まったとされるが、それがワイドショー化・大衆化をもたらした。それに迎合する政治家は「わかりやすい」ことを議論し、メディアはそれに粉飾して伝える。確かに「わかりやすさ」は重要だが、それによって見えなくなった部分は見逃すことのできない。政治的な駆け引きなどに関心を持つようになったという意味では、政治的関心が高まったのだろう。政治的関心はあくまでも政治的なのだ。しかし、それらは必ずしも、政策に興味を持つようになったわけでもない上に、政治的駆け引きにおいても感情的で一面的なものでしかない。
 我々は政策に対して素人だ。が、それでも素人なりに政策を考えてみるという作業をしなくてはならない。それが民主主義のレベルを維持する最低限の国民の務めだ。それを大衆化、ワイドショー化、劇場化に基く「政治的関心」なるものが歪めている。
 
 じゃぁ、どうするのか?
 これこそが問題であるのだが、これに関する処方箋は今のところない。いかなるエキスパートも現状に愚痴をこぼしたり、表面的な議論に終始するだけである。よくても、効果の定かでは無い啓蒙をするにとどまる。もちろん、この番組でも「べき」論ばかりだった。
 大衆化は民主主義の成熟過程とは僕にはとても思えないが、それが極まれば、次の段階に移行するかもしれない…そう願うしかないのだろうか?
 政治の劇場では「キャラ立ち」がする政治家がいい役者となれる。わかりやすく、面白いものが題材が扱われる。
 そんな劇場化でプロから素人の手に政治が行く?身近になる?「劇場化」はそれ以上の存在ではありえず、観客は観客のままだろう。わかりやすい部分だけをわかった気になって、身近なところに来たと錯覚しているにすぎない。
 観客の目は厳しくなるのか、それが問題だ
 宮崎哲弥は新聞だって黎明期があって、スキャンダル合戦をしていた。ワイドショーだって、視聴者がメディアリテラシーが芽生えたら、大丈夫、との楽観的な見通しを示した。
 田原はこれに対して、「新聞は読もうという気がないと読まない、いわば積極性がないといけない。しかし、ワイドショーは言わば、映像・音声が流れてくるメディアであり、受け身の姿勢だ」と言う。
 しかし、そうとばかりは言い切れないと思う。なぜならば、「サンデープロジェクト」や「朝まで生テレビ」はある程度の積極性を要する。ワイドショーとて同じこと。要は中身である。
 宮崎は「政治への関心」があることを前提として、「ワイドショーを見ていて、いつか気づくようになるかもしれない、そしてワイドショーの質も変わってくる」と言っている。しかし、僕にはこの前提は現在進行形で崩れていっていると思う。政治の大衆化による功の部分として「政治への関心が高まった」と言う。裏を返せば、それが無くなったらそれで終わりである。現在、この政治という劇は演者の退場や人気の低迷がおき、崩壊が始まっている。ワイドショーでは政治は完全に主役の座を失っている。
 しかし、ひょっとすると、また主役となる日が来るかもしれない。なぜなら、人々は政治劇をいつでも見ることを望み、新たな、強烈な、演者の登場を願っているからである。(有力候補として石原慎太郎東京都知事があがっていて、番組でも後半は石原論に終始したが…)
 「歴史は繰り返す 一度目は悲劇として 二度目は喜劇として」…マルクスが『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』において残した有名な言葉だ。
 はたして、二度目を迎えて、笑っていられる余裕が日本に残っているだろうか…
●姜さん、いいわ。あの諭すような喋り方。
●八木秀次が「サンプロなどにノコノコと政治家は出ていくべきではない。」「テレポリティクスと言うならばメディアを活用する気概を持て」みたいなことを発言した。これには、もちろん田原とそれに迎合する田原御用達の文化人、政治家は必死に反論。確かに八木の発言は正しい側面はある。しかし、政治家として出演する価値のあるのは、権力についていない、責任ある立場にない若手とか、高度に専門的な知識を持っている人物にとっては、サンプロは非常に利用できる。また、「メディアを利用しろ」発言は矛盾しないか?彼は田中康夫は大衆迎合として認めないだろう?
●八木は、多くの人が靖国参拝をずらしたことの信念の無さに失望した、と指摘した。これについては以前にも西尾幹二のところで、僕は指摘した。姜尚中も言ってるように「(靖国は)国民にとって大きなプライオリティーではない」し、「それは八木さんの価値観」なのである。
●ワイドショーの批判ばかりで、テレポリティクス日本代表の「田原総一郎」への批判は全くといってなかった。まぁ、しょせん限界があるぁね。ばばこういち は田原に質問を浴びせる。「政治をねじ曲げたと思うか?」「権力としての自覚は?」これに対して、田原総一郎は「政治をねじ曲げた」「総理を3人辞めさせた」と得意そうに話していた。周囲は田原を持ち上げるばかりである。「政治に透明性が増した」とか…
●熊代は「不偏不党をはずすべきだ」と言っているのには驚いた。不偏不党でないメディアを批判していたんじゃなかったっけ?法律違反だから批判していたの?本質的なところでは賛成していたとでも言うの?
●テレ朝の川村コメンテーターもたまったものではない。テレビ朝日コメンテーターという地位であるがために、ワイドショーの弁護をせにゃならん。川村は、ワイドショーってのは「田中真紀子研究」「ビンラディン研究」「イスラーム研究」をしてきたという…僕はワイドショーを政治とかを扱ってる時にはよく見るが、いつも同じようなネタをやっていただけの気がするが…
●二木はワイドショーの批判するが、コイツ自身出演するワイドショーがどれほど精巧なものなのか見てみたいもんだ。
●山本一太は「小泉首相はポピュリストではない」と言う。その根拠として「痛みを伴う構造改革」をあげる。が、それは違う。国民は利権の温床となった公共事業に対して不満を持っていた。そこに迎合する形で小泉氏は出てきた。そこには、国民は「痛み」に耐えようという気があったのではない。「今やるべきことは?」という問いに対する国民の回答は「構造改革」ではなく「景気対策」だったのである。
●途中、田中真紀子の功罪を途中でやりだした。どうでもいいよ。それから、テレビは急に態度を変えたって指摘…前に論じたことがあるので省略。
●劇場型として、小泉純一郎と石原慎太郎が典型的な政治家だとして、石原慎太郎についてやりだした。これも以前に論じたので省略。


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