■毎日新聞/社説「パラリンピック アテネの感動をもう一度」
パラリンピックの歴史は1948年にさかのぼる。2度の世界大戦で各国とも多くの傷病者を抱え、こうした人たちをいかに社会復帰させることができるか、大きな問題となっていた。英国の医師がスポーツを通じた機能回復治療が患者にとって肉体的にも精神的にも効果が大きいことに気づき、その年のロンドン五輪の開会式に合わせて車椅子患者によるアーチェリー大会を勤務する病院で開いた。これがパラリンピックの原点とされている。大会の肥大化・商業化・ドーピング…オリンピックと同じだね。スペインの不祥事は無茶苦茶だ。障害者を追いやってまでメダルが欲しいのか。その根性が恥ずかしい。
やがてこの大会は「手術よりスポーツ」のスローガンを生み、国際大会に発展した。五輪と同じように4年に1度の大会となったのは、ローマ五輪が開かれた60年のローマ大会から。この大会を第1回大会とし、原則として五輪開催地で開かれるようになった。アテネ大会は第12回となる。
大会が定着するにつれ、五輪と共通するさまざまな問題を抱えるようになった。大会の肥大化と、行き過ぎた商業化、さらには勝利至上主義によるドーピング(不正薬物使用)違反や、明らかな不正事件まで出現した。
4年前のシドニー大会では、知的障害者の男子バスケットボールで優勝したスペインチームに雑誌記者が選手としてもぐりこみ、大会後、「スペインチームは選手12人中、自分を含めて10人は障害のない選手だった」との記事を掲載し、大スキャンダルに発展した。スペインは金メダルを返上し、同国の知的障害者スポーツ連盟の会長辞任にまで発展した。
パラリンピックの歴史に汚点を残す不幸な事件だったが、多くの教訓を読み取る契機にもなった。パラリンピックに勝利至上主義を持ち込むことが、いかに危険で、意味のないことか。
障害を克服し、代表に選ばれた選手にとって、大会で全力を尽くすことはメダルを獲得する以上に貴重なことだ。同じ障害を抱える世界中の人たちに、どれだけ勇気と希望を与えてくれることだろう。間違っても国別のメダル獲得数を競うような愚をおかしてはならない。
選手の熱意と、周囲の善意で半世紀に及ぶ歴史を刻んできたパラリンピック。選手一人ひとりが乗り越えてきたハードルの高さを思うとき、その感動はおのずと五輪を上回って当然である。
■読売新聞/社説[障害者五輪]「もう一つのアテネも注目したい」
パラリンピックは、当初のリハビリから競技志向への流れを強めている。
国際パラリンピック委員会(IPC)は北京大会から、種目数を削減し、参加選手の人数を制限する。種目が多いとメダルの価値が下がる、とする国際オリンピック委員会(IOC)の要請によるものだ。だが、重度障害者の排除につながるのでは、と危惧(きぐ)する声が強い。
あらゆる障害者が集うのが、パラリンピックの原点だ。エリート選手だけの大会にならないよう、配慮が必要だ。
欧米では、五輪同様、成績が賞金やスポンサー獲得につながり、選手のプロ化が進んでいる。ドーピング(禁止薬物使用)も目立ち始め、違反は前回、五輪に匹敵する十一件に上った。五輪の負の側面をまねてはならない。
日本の障害者スポーツの環境は近年、かなり整備されてきた。六年前の長野冬季パラリンピック後、三百億円の「障害者スポーツ支援基金」が創設された。
だが、課題は多い。同じスポーツでも障害者は厚生労働省、健常者は文部科学省と縦割りで、連携が十分ではない。
文科省の管轄が多いスポーツ施設では障害のある人もない人も一緒に楽しめる所が少なすぎる。床が破損すると誤解して、車いす使用を嫌がる体育館もある。専門の指導員は毎年、二千人程度、養成されているが、財政難と理解不足で、自治体の施設への配置が進んでいない。
やっぱ、こちらも「リハビリ」から「競技」へと変わったことによる負の側面が書いてある。最後は難しい問題だよな。どうせ設備投資するなら、オリンピックを…って意識もあるだろうし。あと、やらしい話、メダルをとったら、どれくらい報奨金がもらえんだろ?
■そういえば、障害者を愛してやまない日本テレビは、どんなパラリンピック報道を予定してんのかな?インターネットの番組表を「パラリンピック」で検索しても、NHK総合・NHK教育の独占状態なんですけど。こういう時こそ、日テレさんが培ってきた、感動物語を作り上げるノウハウを活かしてはどうか?
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