権力は銃口から出てくるという信念は、ゲリラ戦で中国を建設した毛沢東らしい政治観だ。 共産主義の銃口は党と軍だ。 党は理念を細菌のようにまき散らし、軍は暴力で反対者を除去する。 理念は扇動に、扇動は敵がい心に発展する。 敵がい心と暴力はいったん作動すると、対象が除去されるまで拡大する性質がある。 このため銃口の権力は除去と断絶の権力である。それなりに成熟してきているってわけね。ま、楽観もできないわけだが。
革命1世代の毛沢東が絶対権力を行使したのは文化革命(1966〜76年)の時だった。 理念と扇動と敵がい心の時代だった。 この期間中に他殺されたり、自殺を強要されたり、獄死したりした人は、少なくとも数十万人にのぼる。
文化革命の被害者であり、2世代指導者である小平も銃口で執権した。 毛沢東理念の忠実な継承者を自負した4人組と生死をかけた権力闘争(76年)で勝利した。 は当時、同志らをこのように扇動した。
「虐殺される運命に身を任せて党と国家を破滅させるのか、やつらと闘争を続けるのか。4人組の命を絶つ戦闘を敢行しよう」
��世代指導者の江沢民がから権力を譲り受ける過程(87〜89年)に流血粛清はなかった。 しかしこの当時は、自由を要求する学生・知識人勢力が共産党集団権力に挑戦した時期だった。 その最後は89年6月、の決定で行われた天安門広場の集団虐殺だった。 人民に銃口を向けたのは人民解放軍だった。 毛沢東の語法を借りれば、権力内部の量的矛盾が権力の外部の質的矛盾に転換したのである。
こうした権力移動の歴史で、江沢民権力が4世代の胡錦濤国家主席にすんなりと移譲されたのは驚くべきことだ。 権力内部の生死をかけた暗闘も、権力外部の市民の抵抗もなかった。 中国政治は権力が銃口から出てくるという断絶の政治観を15年ぶりに克服した。 譲る者と譲り受ける者に連続性が生じた。 共産党権力とその外部の人民間の葛藤は、統制可能な水準に緩和された。
中国政治の成熟は、断絶の権力史から政治指導者らが得た教訓のためだろう。 文化革命は悪夢だったし、天安門虐殺は誰かが責任を負うべき現在進行形の事件という教訓だ。 過去の危険と現在の脅威を共有した彼らは、闘いよりも妥協を選ぶしかなかった。
2004年9月22日水曜日
銃口権力論
【噴水台】銃口権力論(中央日報)
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