2004年8月13日金曜日

天皇・靖国神社参拝

■産経抄
 中国外務省が小泉首相の「靖国神社参拝は来年も続ける」という発言をとり上げ、鬼の首でもとったように「日本の指導者は侵略を反省するといった約束を守れ」と言い立てている。これも先日書いた「天を偸(ぬす)んで日に換える」式のすりかえだろう。

 ▼サッカー・サポーターの暴動で、北京五輪をやる中国への不信感が内外に高まった。その不信の矢の方向をすりかえる詐術みたいなもの。歴史の問題では「もう日本は中国に謝罪しなくていい」(馬立誠・元人民日報高級評論委員)という声が、中国内にもあるほどなのだ。

 ▼来年は敗戦六十周年だが、二日付本紙・石原慎太郎氏『日本よ』の「陛下、お願いいたします」は大きな反響を呼んだ。「来年こそ、八月十五日に天皇陛下に靖国神社に参拝していただきたいと熱願する」と石原氏は強く訴えたのだった。

 ▼たとえば十二日の夕刊フジで亀井静香氏は「まったく同感だ」と書いている。「兵士は父母兄弟や故郷の山河に思いをはせながら散った。陛下のご参拝はそうした英霊を慰めるだけでなく、文化的存在のご行為として、外国が政治的理由をもって批判することはできない」(大意)。

 ▼石原、亀井両氏がいうように、靖国の思想とは英霊に感謝し、世界の平和を祈る心の具体的な表れである。陛下がまず一人の日本人としてご参拝なされば、日本人全体の意識や思考に大きな影響を与える。日本のメディアや外国の論評も鎮静する。

 ▼三年前の夏、大阪の酒井順子さんという年配の読者からいただいた手紙は今も忘れられない。「日本人が靖国参拝をしなくなった時こそ、戦争の怖さを忘れて戦争を起こす日本人が多くなった時と理解すべきです」。これがごく普通の日本人の感覚なのだ。

 天皇を政治利用するなど、何とも「不敬」な奴らだ。

■どうやら私は「ごく普通の日本人の感覚」を持ち合わせていないようだな。「戦争の怖さを忘れて戦争を起こす」のは、保守派にこそ当てはまるではないか?


■石原慎太郎「陛下、お願いいたします」(『日本よ』産経新聞2004年8月2日)
 私は今年も来る十五日に靖国神社に参拝するが、同じ日に詣でる度、年々自分が英霊に伝えるべき言葉を失っていくのに暗澹とさせられる。

 この国の今の態様をもたらしたものの一つに、戦後多くの日本人たちが盲執し絶対化した「平和」なる観念があろうが、我々をとりまくもろもろの現実、いや我が身にすでに起こっている出来事を直視すれば、我々は、それを守るために講ずべき具体的な手立てがあり、それはそう決めれば他国に比べて極めて可能、有効であるということを知り直すべきに違いない。

 一方、こうした自己喪失の中で我々の内なる荒廃は驚くほどに進んでおり、最近日本の社会に氾濫する、幼い世代の手による禍々しい犯罪とそれへの社会的無為には、自らのことながら茫然とさせられる。

 これを見て誰の責任何の責任と問う前に、そのさらに根源にある「喪失」について考えるべきに違いない。それは端的に、いかなる時代、国家をふくめていかなる立場いかなる民族をも超えて、同じ人間の形作る連帯の中で我々がいわばジャイロコンパスの指針として垂直に継承していくべき価値観、その以前にそれを支える垂直な情念の喪失である。

 それはこの風土が培ってきた伝統文化への愛着、それらのアイデンティティーヘの正確な認識、それに発する友情と連帯感、そしてそこからこそかもしだされる自己抑制、自己犠牲をふまえた責任感といった、国家社会という巨きな群れを支え存続させるために不可欠な、本能に近い情念に他ならない。

 それを取り戻すためのきっかけとして最大なるものは、近代国家として日本が初めて体験した敗戦の日に他なるまいに。その日にこそ我々は平和のため同胞に強いられた犠牲の大きさ、貴さについて強く確かに悟りなおすことが出来るはずである。そしてあの大きな戦の大義、白人による世界の植民地支配の打破が、かつてトルコ独立建国の父ケマルパシャがいい、エジプトのナセル、インドネシアのスカルノ、そしてマレーシアのマハティールといった優れた指導者たちも等しく認識しているように、日本が挺したそれらの犠牲の上にのみ有り得たということを自覚すべきに違いない。

 その確認こそが日本の真の再生に繋がっていくはずである。そしてその内なる大きな作業のために、敗戦六十周年の来年にこそ、八月十五日に天皇陛下に靖国神社に参拝していただきたいと熱願する。

 昭和天皇は戦後においても過去八回参拝を遂げておられる。その後ことさら靖国神社参拝の是非にからめて、隣国たちからの日本の近代史批判等情勢の変化もありはしたが、今日の日本国民の内的な危機感とその克服への熱望という、外からは見えにくい大きな意識の流れを踏まえれば、日本の元首である天皇が、あくまで一人の日本人としてまず私的な参拝を行われることで、日本人の意識に新しく大きな火が点されるに違いない。

 ちなみに、同じ人間であられる天皇が私的行為として行う参拝は、もろもろの学説は別にして、判例では民事責任の対象となりえないということは確立している。後は天皇御自身、今日の国家社会の態様を眺めて、自らの行為の国家にとっての歴史的効用を考えられての御判断に依るだけである。

 天皇自らが日本人にとって垂直の情念にのっとった垂直の価値観の体現を、参拝という行為で示された瞬間、我々の内にしみじみと、しかし大きく蘇るものがあるはずである。それを眺めれば、歪んだメディアも外国の論評もすべて淘汰され沈黙するに違いない。



■亀井静香「日本人の精神的領域に踏み込むのは容認できない」(夕刊フジ2004.08.12)
ぜひ来年は陛下のご参拝実現を

 そうしたなか、東京都の石原慎太郎知事が「終戦60周年となる来年の8月15日にこそ、天皇陛下に靖国神社にご参拝していただきたい」と訴えていたが、私もまったく同感だ。
 兵士は自らの父母兄弟や故郷の山河に思いをはせながら、戦友たちと「靖国の森で会おう」と誓い、「天皇陛下、万歳!」といって戦場で散った。
 陛下のご参拝はそうした英霊を慰めるだけでなく、政治的権力者・当事者でない文化的存在であられる天皇陛下がご参拝されることは、外国がこれに政治的理由をもって批判することはできず、日本民族の(英霊の尊き犠牲に感謝し、世界の平和を祈る)精神を具体的に外に示すことになり、日本人の意識にも大きな影響を与えるに違いない。


■ただ、亀井は前段でこんなことも言っている
理解も必要だが
 ただ、いくら自分では「浪花節は素晴らしい」と思っていても、窓を全開して大声でうなっていれば、オペラ好きの隣近所から「うるさいー」と文句を言われても仕方ないように、相手を理解して相手からも理解される努力をしなければならない。
 中曽根康弘元首相が首相に就任した直後、靖国神社への公式参拝を行ったが、その後、取りやめた背景には、こういった意識が働いたのかもしれない。
 われわれの文化を思い切って主張することがショック療法となり、近隣諸国に文化の違いを認めさせることもあるだろうが、逆に、両国関係に破局的事態を生むこともあり得る。
 国家の最高責任者である小泉純一郎首相は、そのあたりを十分踏まえて、自らの行動を決断すべきだろう。



【追記】
天皇陛下の靖国参拝は「慎重に」…宮内庁見解(サンスポ)
 石原慎太郎都知事が来年の戦後60年に当たって天皇陛下が靖国神社を参拝されるよう求めたことについて宮内庁の羽毛田信吾次長は6日、「はいどうぞ、というたぐいの話ではない。陛下のご動静が政治的意味合いを持ってくるとなると、これは慎重に考えなければいけない」と述べた。
 一方で「地方訪問時に神社へ行かれるなど、陛下が私人として神社を参拝されることは一般論としてはありうる。政府見解でも陛下には私人の立場がある」とも指摘した。

 石原知事は先月15日の靖国神社参拝後に「(来年は)ぜひ天皇に私人として、1人の国民として、国民を代表して参拝していただきたい」と述べた。靖国神社からご参拝の要請はまだないという。



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