2004年7月20日火曜日

二大政党

2004年7月20日(火)「しんぶん赤旗」

「二大政党」で切捨てられる選択肢― 立教大学・五十嵐暁郎教授政治学)に聞く
 こんどの参院選は、もろ手を上げて「二大政党」制を正面から主張できる状況ではありませんでした。そもそも自民、民主両党の間に政策面で明確な対立軸がありませんでした。

 にもかかわらず今回の選挙が「二大政党化」への流れを加速したというふうにみえるのは、どうしてでしょうか。

衰退と解体の動き
 私には「二大政党」定着というよりも、マスコミ各社の「二大政党化」報道パターンの声が大きかったというのが実態ではないかと思われるのです。

 「二大政党」とはいうものの、一方の自民党は一路衰退の道をたどりつつあり、他方の民主党は政策などの対立しだいでは解体という問題をはらんでいるわけです。それだけに「二大政党」論にしがみつきたい構造と党内事情が自民、民主両党には内在しています。

 今回の自民党の票の出方を見ると、自民党を支える基本構造が壊れているのが誰の目にもわかります。小泉「改革」の三年間で、旧来の利益誘導型政治のなかで形作られていた支持団体と自民党との関係が壊れ、自民党の基盤のコア(核)が崩れてきたということでしょう。一方で、小泉政権は、多くの有権者が支持する「改革」後のビジョンを描くこともできなかった。

 今度の選挙を通じて自民党は、十年先に、どうなってしまっているかが、わからない政党になってしまいました。

 「自民党をぶっ壊す」といって人気を得た小泉政権の登場は、自民党の終わりの始まりだと私はいい続けてきました。

 他方、党をまとめるイデオロギー、基本政策の一致を見いだせない民主党は、「二大政党」の掛け声と「政権交代」のスローガンを目の前にぶら下げることでしかまとまりをつけることができない弱みを抱えている政党であることが見えました。

 両党ともに長期的な見通しにたった政策がありません。

自、民の選挙戦略
「二大政党」体制という仕組みに寄りかからないと自民、民主両党ともに政党としてもたない現状があるわけです。つまり「二大政党」をいうこと自体が彼らの選挙戦略であり、党内対策なのです。

 有権者の立場に立てば、そもそも「二大政党」万々歳といっていいのでしょうか。

 現在のように転換期にある社会のさまざまな問題を、二つの政党の黒か白かで考えることが妥当なのでしょうか。選択肢は多様でなければならない。

 「二大政党」ではほかのいろいろな選択肢が切り捨てられます。私たちの貴重な選択肢が狭められて、似通ったものの二者択一の枠に縛られる選択肢しか示されないのは有権者にとってマイナスです。

マスコミの姿勢
 「二大政党」論の横行にはマスコミの役割も指摘しないわけにいきません。

 視聴者にたいして何が売りやすい切り口かという頭でしか考えない多くのマスコミは「二大政党はいいことだ」と報道しています。小選挙区制も「二大政党」はいいものというマスコミに乗って通された経過がありました。その意味でマスコミは、自民党と民主党が「二大政党」論で得ている利益の第三の共有者になっています。

 マスコミ自ら「二大政党対決」の枠組みをつくって、視野を狭くしているのです。

 例えば、世論調査を見るとイラク戦争にたいする態度は自民、民主両党と市民レベルとでは大きな乖離(かいり)がありました。

 マスコミが、例えば「女性と戦争」といった争点を独自に設けて選挙戦で議論を起こしたらどういう選挙結果になっていたか。

無党派層の期待
 いまの有権者、とくに無党派層は政治家や政党のことばを簡単には信じない。それは失恋に失恋を重ねた人の心情のようなもので、裏切られ裏切られた日本の有権者のほおには涙の跡があるんです。もうだまされはしないぞと思っているんです。

 無党派層の支持と共感を得ようとするなら、そういう有権者の琴線に響く言葉がないとだめです。いったん響けば、有権者は動きます。なぜかといえばもともと無党派層は政党にたいする期待が大きいからです。

 今後の政治は流動性を増すのはまちがいないです。行き詰まった自民党の起死回生の救世主として現れた小泉首相でしたが、参院選を境に内閣支持率は激しく低下しています。

 「二大政党」が固まって、長持ちするといえる根拠は脆弱です。







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