教育基本法改正についての与党の方針が1項目を除いてまとまった。まとまらなかったのは愛国心をめぐる表現である。
自民党は「国を愛する」ことを教えるよう求めたが、公明党は「国を大切にする」に変えるよう主張し、折り合わなかった。
公明党からは、国を愛せというのは統治機構を愛せということにならないか、との疑問が示された。戦前の「忠君愛国」のスローガンが戦争をあおり、異論を許さないことにつながった、という慎重論も強かった。
公明党は愛国心という言葉に戦前への回帰と国家主義のにおいをかぎ取ったに違いない。支持母体の創価学会が戦前、国家から弾圧された経験を持つだけに、警戒するのは当然のことだろう。
そうした恐れは、「国を愛する」を「国を大切にする」に変えたところで、ぬぐいきれるものだろうか。
問題は愛国心の表現にあるのではない。愛国心をどうとらえるか、愛国心が育つにはどうすればいいのか、にある。
民主主義の国では、主権者である国民が統治の仕組みを決め、選挙で選んだ代表を通じて国を治める。どういう国をつくりたいかはそれぞれ考えが違うだろうが、自由に意見をたたかわし、妥協が必要なときは妥協して、社会をつくり、国をつくっていくのである。
みんなが参加してつくった民主的な社会や国だからこそ、そこに愛情が生まれる。国民一人ひとりが尊重され、その意思が反映される国ならば、愛国心は自然に生まれ、育っていく。
国を愛せ、と一方的に教えるだけで愛国心が育つはずがない。まして、戦前のような国家体制への郷愁にかられて、国を愛せ、伝統や文化を愛せ、というのならば、とても受け入れられない話だ。
自分の国をどう愛するかは、人によってそれぞれ違う。国を思うからこそイラクへの自衛隊派遣に反対する人がいるし、逆に、賛成する人もいる。自衛隊派遣に反対した人を「反政府、反日的分子」と非難した与党議員がいた。国の愛し方を一方的に決めつけるようでは、ゆがんだ愛国心になってしまう。
愛国心を教えるよう法で定めれば、学校で指導が強制される恐れがある。国旗・国歌法が成立したとき、小渕首相が「命令や強制は考えていない」と国会で答弁したのに、強制が広がったことを忘れるわけにはいかない。
すでに「国を愛する心情」を成績として評価する小学校が全国で増えている。愛国心を子どもに教え込み、愛国の度合いを競わせる。それで国民に愛される国になるだろうか。
今の教育基本法が育てようとしているのは「平和な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、勤労と責任を重んじ、心身ともに健康な国民」である。戦後、この法律通りに教育行政がされていれば、愛国心を十分持った国民が育っていたのではないだろうか。
��月18日
■読売社説[教育基本法]「『国を愛する心』でなぜいけない」
なぜ、だめなのか。
「戦前の国家主義のにおいがする」「『国を愛する』だと、国のために死ねるというイメージだ」。そんな理由を挙げている。「統治機構も愛せというのか」といった、おかしな反論まで出てきた。
多面的なグローバル化が進む中、私たちには国際社会の一員として、異なる文化や歴史を持つ人々との共生が求められている。そのためにまず、私たちの生活の根底にある日本の伝統・文化への理解を深める必要がある。
中教審答申は、この視点に立ち、「日本人であることの自覚や、郷土や国を愛し、誇りに思う心」をはぐくむ必要性を説いた。協議会のメンバーは、この答申をもう一度、読み返してほしい。
「国を愛する心」は、現行の学習指導要領にも明記されている。小学三、四年の道徳では、「我が国の文化と伝統に親しみ、国を愛する心をもつとともに、外国の人々や文化に関心」をもつよう指導することになっている。
国民の祝日に関する法律では、建国記念の日を「建国をしのび、国を愛する心を養う」と説明している。
愛国心の涵養(かんよう)は、国家主義とはまったく別の問題なのだ。
それなのに、五年前の国旗・国歌法制定に際しても、一部のイデオロギー勢力が「近隣諸国に対する侵略戦争のシンボルだった」などと、日の丸、君が代への敵愾(てきがい)心をあおった。
そもそも愛国心の涵養が是か非かなどというのは、諸外国ではありえない議論だ。不毛な論争は終わりにしたい。
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