2004年1月19日月曜日

相撲…恥ずかしき日本の国技

 なかなか興味深い記事を見つけた。
 フランスと大相撲で結びつくのがシラク大統領だが…
 「相撲は知的スポーツではない」――。仏誌パリ・マッチによると、野心家で知られるフランスのサルコジ内相が今月上旬の中国訪問で日本通の相撲愛好家、シラク大統領をあてこすり、相撲や日本をけなす暴言を吐いた。
 最新号のパリ・マッチによると、サルコジ氏は今月9日、香港での食事会の席上、「率直に言って、日本よりも中国の方が好きだ」と発言。「香港は魅惑的な都市だが、東京は違う。東京は息が詰まる。京都も何が人々の感嘆を呼ぶのか理解できない。御所もうらぶれているように映る」と日本の都市をこきおろした。
 さらに「ちょうど相撲のようなものだ。ポマードでまげを結った太っちょの格闘技なぞにどうして魅了されることができるのだろう。相撲は知的なスポーツではない」と日本批判をエスカレートさせたという。大の相撲ファンのシラク氏を意識した発言なのは明らかだ。
 サルコジ氏は現右派・中道政権で「最も人気のある閣僚」と呼ばれる。07年の大統領選への出馬に意欲を燃やす同氏は「大統領任期は2期に限るべきだ」と3選目となるシラク氏をけん制、新旧世代のライバル関係にある両者間にはぎくしゃくした空気が広がっている。仏メディアは相撲批判を「新たな不和の種」と一斉に報じた。(毎日新聞・1月17日,パリ福島良典)

 まず普通のコメントをしておく…
 一般人がそれを言うのは勝手だろう。「相撲が知的じゃない」とか「東京が嫌いだ」と言っても、それは本人の率直な感想であり、何の問題もない。もちろん、政治家の発言としては、どうなのかと思う。これを聞いた日本人は決していい気がしないし、あまりにも他文化への「理解」が足りないと言えよう。
 まぁ、言いたいことはそんなことではなくて…
 相撲が知的なスポーツじゃない?
 当たり前である。そう思われて当然のことを相撲はしていし、日本人は相撲に慣れていて、感覚が麻痺しているだけだ。
 知的じゃない理由…見たまんまである。
 どのプレイヤーも「これでもか!」とばかりに「デブ」であり、その「デブ」は「まわし」なるもので股間を隠すのみで、惜しげも無く自分の醜い裸体をさらしている。
 塩を投げつけて、勝負が始まり、ぶよぶよとした脂肪塊が抱き合う。
 より大きな「デブ」は当然有利であり、どの「デブ」も競うようにして食いまくる(大食い大会には「食べ物を粗末にするな!」という苦情がいくが、そういう人たちは自国で大量のデブを養って食料を無駄にしていることにはひどく無自覚だ)。傍から見ていると「クレイジー」としか思えないが、これは「デブ」にとって死活問題なのである。だから、必死に食うのだ。
 戦略というものは見当たらず、勝敗はシンプルに決る。事実、どの力士も「自分の相撲を取るだけ」と言っているし、勝利しても「自分の相撲が取れた」と無邪気に喜んでいる。これは戦略など相撲に必要無いことを意味しており、相撲における唯一のポイントは太るだけ太って「自分の相撲」を取れるかどうかである。
 しかも、横綱が負けたりすると最悪の修羅場が待っている。これまで大人しかった観客(年老いたおじいちゃん、おばあちゃんまでも…)も一斉に「暴徒」と化し、座布団を選手に向かってぶつけだす…「危険ですので座布団はお投げにならないように…」とのアナウンスをしても無駄である。観客はすでに冷静さを失っており、誰も座布団をぶつけるという暴挙を止めることはできない。これに比べたら「荒れる成人式」などかわいいものである。
 この常軌を逸した行動をNHKが報じているが、不思議なことに、普段はうるさいPTA筋から「子どもたちに悪影響がでる」という苦情はこない。
 「相撲は知的だ!」とお怒りの方がいたのなら、ぜひ教えて欲しい。いったい、「知的」という言葉がどこに当てはまるというのか?
 日本人である私も、それが知りたいのだ。
 ちなみに、僕は相撲が嫌いなわけではなく、むしろよく見ている方だ。だが、僕は相撲が知的なスポーツじゃないことを知っている。
 そして、このスポーツを「国技」と呼ぶのは、抵抗がある。だってそうだろう…いや、もはや繰り返す必要はないか。
��メモ)
■京都に関しても、批判は当然だと思う。「東洋の神秘」という信仰心がない限り、観光地としての魅力はないと思う。なぜなら、京都は近代化されており、古き町並みがあったとしても、それは土産物屋であったり、食い物屋であったりして、商売目的だ。
■サルコジ内相は「政局絡みでセンセーショナルに報じられ、困惑している。日本についてそうした発言はしていない」と発言そのものを否定。だが、フランスの他社の記者も耳にしており、発言したことは間違いないようだ。


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