2002年1月1日火曜日

小泉首相と首相公選制

2001.06.23
 自民党の「改革」を旗印に小泉内閣が、異常なまでの追い風をうけて好スタートした。前内閣が不信のどん底にあえいでいたのと比べると、これが同じ自民党を軸とする政権かと、見間違えんばかりである
 この高支持率は、森前総理への不支持からの反動、自民党に対する嫌悪感のあらわれであろう。もはや、国民は自民党に対する怒りが爆発しそうであった。
 総裁選において、一番具体策のない小泉氏が総理になったのは、その空気を感じ取り、脱派閥宣言をした嗅覚は優れていたと言えよう。
 小泉人気が、即自民党人気につながらない、と言われるが、それは必ずしもそうではない。実際は、自民党の支持率は上昇し始めた(もちろん「開かれた」総裁選を演出したこともあるが)。今回、見事に表紙の取替えに成功したわけである。
 しかし、森氏を擁護してた時、小泉氏自身も言っていたが、「表紙がかわっても中身が変わらなければ一緒」なのである。そこを見逃してはなるまい。
 「小泉さんは一種の首相公選制をやっちゃった」…YKKの盟友、加藤紘一氏は自民党総裁選小泉氏の選出をこう評した。小泉首相は、党員・党友の予備選という首相公選的仕組みから誕生したまさに時代の申し子と言えよう。しかし、これがミニ公選制の様相を呈したと評されたから、即座に首相公選制導入に結びつけるのは間違っている。
 今度の小泉内閣を見ていてつくづく首相公選制は時期尚早だと思った。小泉氏や田中真紀子氏などに対して質疑をおこなった野党議員に対して「いじめるな」だとか「答えられないような質問をするな」といった極めてレベルの低い抗議が殺到した。このような人達はおそらく今まで政治に無関心だったのであろう。田中真紀子がテレビに出てるってんで、政治に少し関心を持ったのだ。そして、この人達は小泉氏の高い支持率に対して何ら警戒していないし、批判を許さず、人気者に盲従する人達である。
 私は政治的無関心というのは重大な問題だと思っていて、国民の関心を集めさせたことが「小泉ワイドショー内閣」の最大の功であると思っていたが、今回の件で、それが最大の罪に変わりうることを十分に思い知らされた。
 今なら不思議なことに、衆議員選挙時に森総理が言ったように「関心が無いと言って寝ていてくれればいい」とさえ思えてしまう。そして小泉氏のやることが全て正しいと思っている人には一刻も早く再度お眠り頂きたいとさえ思う。
それに今は、急進的なことをやれば、リーダーシップだと勘違いしてしまっている。
そもそも、首相を直接選べばリーダーシップを発揮できるという考えは幻想である。議院内閣制の首相は、行政府の長であると同時に、立法府である国会で常に過半数を超える与党から支持されているわけで、(国会との対立の可能性のある)大統領制より、立法府においても、強力な指導力を発揮できる立場にあるはずである(行政府と立法府の対立の非生産性は、米国の例を見れば明らか)。
 にもかかわらず、首相のリーダーシップを発揮できないような状況にしているのは、党における党首のリーダーシップを認めさせない状況にあるせいだ。今、首相公選制が話題になる本質は、行政のトップが公選されないのが問題ではなく、政党政治に民意が反映していないのが問題なのであって、政治制度の問題ではない。
 首相公選制で政治のリーダーシップを回復させようというのはあまりに安直だ。わが国で政治の指導性が喪失された最大の要因は、リクルート事件から最近ではKSD事件と、あとをたたない政治スキャンダルだ。政治への信頼を政治の側で裏切ってきた。そもそも、首相公選制が何故これほどまでに支持を集めるようになったというのか?不透明な派閥主体の首相の選出…政策論争の空洞化…当選回数、派閥順送りの大臣の選出…主流、非主流による権力闘争に腐心し総裁のリーダーシップを認めない…このような政治をしてきたのは一体どこの、どの政党だというのか?
 首相公選制が支持されるのは議院内閣制がダメだからではない、いわゆる自民党的な政党政治(組織依存、地方と都会の意識のギャップ、陳情処理型・官僚丸投げ政策)がダメなのだ。そしてそれらが首相公選制によって、その欠陥が解消されるという根拠はどこにもない。
  国民は、その寿命の尽きた自民党を長年延命させ続けてきた。「今の政治はダメだ」「誰がやっても一緒」などと屁理屈を言って選挙に行かず、自民党を黙認し、変化を遅らせてきた。その国民が、首相公選制のもとで、直接選び、任せておけば、その選ばれた首相が国民に迎合することなく、何もかもよくしてくれるというのはあまりにも自分達の評価能力、政治レベルに対する過信であるし、都合のよい話である。
 国会議員選挙とは一つ目の意味は立法府の構成員を選出する選挙で、二つ目の意味は行政を担当する政党を選出する選挙なのである。テレビで流れる「森前総理密室選出」のように、自分達のあずかり知らぬところで選出されているのに激怒する前に、自分の手の届くところにいる、その選出を結果として許し自民党に居続けている候補者の存在に気付いてからにしてはどうか?(特に自民党内反自民という国民に媚びることをして自分の保身しか考えず、巧みに生き延びていこうとする輩などには目を光らせなければならなかった。)
 彼らは自分の手の届くところにいる。自分たちの怠惰を棚に上げ、リーダー待望論、首相公選制に飛びつくのは軽率だ。
 また、国民が直接選ぶことによって政治への関心が増す、という意見があるが、これには疑問が残る。国民の政治的無関心は先進国の共通の悩みではないか。直接選べば日本だけ直るというのはおかしい。
 公選されたら、政治に責任をもつようになる、というのもおかしい。例えば、かつて横山ノックや青島幸男に投票した人は本当に責任を感じていただろうか。そもそも、反省するような「常識」を持っている人ならはじめから投票しない。
 首相公選制は政治参加を促進させるという意見もあるが、公選制の導入はリーダー待望論の性質があり、「上からの革命」を望むものであって、国民の政治参加を自ら拒否している表れであるとも取れる。
 私は首相公選制に反対である。
  小泉氏は自らの党を改革すると言っているのであれば、首相公選制の意義を熱く語るなどの無駄な時間を費やすよりも前に、まず自分達から変えていったらどうか。もはや小泉氏は自民党内反自民では通用しない。
 小泉氏は「聖域なき構造改革」を旗印にし、何の根拠があってか、「構造改革なくしては景気回復はなし」と、小泉首相は再三にわたり力説している。自ら課した政策課題の中でも、首相公選制の優先度は必ずしも高くはないはずだ。マスコミや野党は具体策がないと批判してきた。小泉氏の言う「改革」は今や「平和」という語句同様、批判できない美辞麗句と化しており、何かにつけて「改革」を叫ぶ小泉氏を見ていると、森前総理が 「IT…IT…IT…」 と連呼していた日々がなつかしい。
 国民が小泉氏を選んだのは彼の持論の郵政三事業の民営化、首相公選制の導入、憲法改正、靖国神社参拝、そして経済政策に期待して彼を支持しているわけではない。そんなことよりも自民党的な政治からの脱却を表明した小泉氏を支持しているのだ。
また、首相公選論を利用して憲法改正論議に世論を誘導しようとする政治的思惑があることも、考慮しておく必要があるだろう。
 憲法問題での小泉氏の発言すべてが支持されているのかどうか、留意しておく必要がある。「脱派閥」に象徴される「永田町の変革」に圧倒的な支持が集まったのであって、憲法の個別的問題までが共鳴を呼んだのかどうか疑問が残るからだ。九条改正問題では、専守防衛を逸脱する恐れを指摘する声も根強い。憲法に対する関心が高まった今、大切なことは、性急に流されずに憲法を自分のこととして考え、じっくりと、納得できるまで論議を尽くすことである。
 「改革」を旗印に登場した小泉純一郎首相は、国会の代表質問でも、とりわけ憲法にかかわる積極的な発言が目立った。
 首相公選制の導入や憲法九条と集団的自衛権に言及するのは、憲法改正に慎重姿勢をとってきたこれまでの首相と比べても際立っている。
 首相の積極発言は、かねてからの持論と新内閣に対する高い支持率や国民の憲法意識の変化を汲み取ってのことだろう。
 戦後半世紀を過ぎても政治が国民の声を十分に汲み取らず、自民党の派閥によって首相が決まって行く現実に対する国民の不信、不満の表れである。
 だとすれば、憲法を改正し首相公選制を導入するという議論の前に、まず自民党の派閥解消や国会改革がなされるべきではないのか。議院内閣制を十分機能させる改革こそが必要なのではないか。
 戦後の平和と発展は、主権在民、平和主義、人権尊重という憲法の三原則が基本にあったからだ。「改憲」を急ぐ前に、憲法が十分に生かされているかどうかを検証してみてはいかがか?
  そもそも政治が機能不全に陥るのは制度に原因があるというよりも、政党や政治家の質に問題があるのではないか。政治の閉塞状況を打破しようと公選論を待望するのは、少し短絡過ぎはしないか。問題の先送りであり、実現したとしても政治の変革にはつながらないだろう。いま必要なのは制度改革ではなく国民の改革である。
 
 憲法をめぐる状況は、年ごとに改正へ歩調を強める傾向にある。多様な視点で多角的に論ずることは、もちろん必要だ。同時にムードに押し流される危険も見詰めていたい。
 そして半面、熱気の中で冷静な目を向けるにつけ、気掛かりがないではない。その一つは憲法に対する姿勢である。
そもそも、首相公選制に反対である.
私は護憲派ではないが、憲法改正をしやすくするために首相公選制の導入ならば、断固反対する。小泉氏はあきらかに
 「首相公選制のためだけの改正ならば、国民から理解されやすい。改正の手続きも鮮明になる」
これに配慮して小泉首相の口から九条改正が隠れ、首相公選制が前面に出たと察する。
 そして、山崎拓自民党幹事長の改憲試案発表だ。結果として政府のトップ、与党の幹部が共に積極的な改憲論者であることが鮮明となった。
 政府と与党が呼応するかのような改憲への踏み込んだ言動は珍しい。一つの転機となり得るだけの重みがある。
 九条と自衛隊の存在や集団自衛権の問題を決着させる、環境権や知る権利など新たな課題を位置づける、内閣制度の強化を図る…。提起される問題点は、多岐にわたっている。
 「改憲ありき」の発想が先に立ちやすいからである。どこを改めるかよりは、全般に改憲ムードが先行する風潮と言い換えてもいい。
 小泉発言もそうだ。当初は明らかに九条、いわゆる戦争放棄の規定を改める方向に力点が置かれた。それが首相公選制へと移っていく。その理由は、公選制の方が九条より国民の理解を得やすいことである。改正への入り口に何が抵抗感薄く、ふさわしいかの選択になっている。
  憲法改正を基軸に政界再編をにらむ意図がうかがえることも軽視できない。与党内に憲法観に開きがあるのはもちろん、野党も改正に積極的な自由党、護憲の共産、社民両党があり、民主党内には両論が混在している。
 与野党を横断した政界地図の塗り替えが可能かもしれない。とはいえそのための改正論は、国の在り方の骨格である憲法問題を政界再編の思惑にわい小化しかねない。
 ましてや改憲へ日程を早める好機ととらえるようなことは、謙虚に慎まなくてはなるまい。


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