石川真澄さん71歳(いしかわ・ますみ=ジャーナリスト)16日、悪性胸腺腫のため死去。葬儀は近親者だけで行う。喪主は妻弥生(やよい)さん。自宅は非公表。朝日新聞政治担当編集委員などを経て、政治学者として活躍。著書に「戦後政治史」など。そっか…大学入ってすぐ彼の「戦後政治史」(岩波新書)を読んだ。日本政治史を知るにはまずはこれを読んでおけば…とすすめられたからだ。新書ということもあって、わかりやすく書かれており、基礎的な知識は得ることができたと思う。
この度、改訂版が出るとのこと。北大の山口二郎も加筆しているらしい。ぜひ読みたいものだ。読んでいない人は、この機会にぜひご一読を。
石川真澄 『戦後政治史』岩波新書 |
■早野透『戦後政治描いたペンが逝く』(ポリティカにっぽん,朝日新聞2004/09/21)
石川さんは朝日新聞政治部の私の先輩記者で、折々酒を酌み交わし教えられた。「政治部記者は政界部記者になってはだめだよ」とよく言っていた。権力の提灯持ちになるなという戒めだった。
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政治とは、政治家の言動と政治記者の批判のキャッチボールで演じられるドラマともいえる。政治史は政治家の言動史として組み立てられるけれども、政治記者のペンの歴史としても組み立てることができる。石川さんのペンはそういうペンだった。
石川さんが最初に接した首相は池田勇人だった。60年安保闘争で人心が荒れた後、所得倍増論を唱えた。石川さんは「ぼくら、ベアはあっても物価は上がる税金は増えるで実質何も増えちゃいません」と池田につっかかった。
すると池田は「君の月給はいくらだ。ボーナスはいくらだ」と具体的に数字を問いただし、うろ覚えの石川さんをあわてさせた。池田から税率や控除の仕組みまで細かく説明され、ぐうの音も出ない。理系出身の石川さんが後年、選挙の数理分析で天下一品の記者になったのは、池田のおかげかもしれない。
石川さんのペンが向かったのは日本社会党だった。「米国の生活水準、ソ連の社会保障、英国の議会制民主主義、日本の平和憲法」を目標にあげた江田ビジョンが「米国は敵だ。けしからん」という左派から袋叩きにあった時期をつぶさに取材した。石川さんは社会党がマルクス主義から社会民主主義に転換するチャンスをみすみす失ったことを痛恨の思いで見ていた。雑誌「世界」の92年11月号に発表した論文「自己変革できなかった戦後革新」はそのことを書いた名論文である。
偲ぶ会では、土井たか子前社民党党首が「私の護憲をかたくなだと叱りながら温かく励ましてくれていた」とあいさつした。土井さんの最高のブレーンだったと言っても土井さんは怒らないだろう。菅直人前民主党代表は「若いころ夜更けまで議論して石川さんの家に泊まってしまった」などと話した。さて、いまの民主党は石川さんの望んだあり方なのかどうか。
石川さんは、「土建国家」「生活保守主義」「1と2分の1体制」「自民激昇」など時代をえぐる鮮やかな造語を発明した。「1と2分の1」とは、戦後日本の保守と革新のシェアは結局この比率で変わらないということであり、「自民激昇」は86年衆参同日選挙での自民圧勝をピタリ予測した言葉だった。
石川さんのペンで歴史に残るのは、小選挙区制反対のキャンペーンだった。小選挙区は民意を正しく反映しない、比例代表制の方がいいと終始主張した。小選挙区は民意をゆがめて巨大与党を招来するだけで、むしろ政権交代を阻む制度だという懐疑を抱き続けた。石川さんは人間一人一人の価値を重んじる徹底した民主主義者だった。
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