2004年6月3日木曜日

ネット社会

社会の安定装置としての「インターネット」


■長崎県佐世保市の大久保小学校で、6年生の御手洗怜美さんがカッターナイフで首を切り付けられ死亡した。メディアは、児童心理学の専門家とか精神科医とかを登場させ、好き勝手な「解説」をさせている。
■「小学生の死――なぜ防げなかったのか」(朝日新聞 社説)「周囲は兆候に気付かなかったか」(読売新聞 社説)とか、「子供に、もっと命の大切さを分からせねばならない」(読売社説)といった言葉に、どれほどの説得力があるのかと虚しい気分にさせられる。まぁ、「この事件で論説を書け」と言われれば、こういった内容にならざるをえないのだろう。
■補導された同級生の11歳の女児が動機について、「インターネット上で、自分のことについて怜美さんが書き込んだ内容が面白くなかった。いすに座らせて切った。殺すつもりだった」と供述しているらしい。
■年齢からいってプライバシー保護に重点がおかれるため、事件の全容がわかりにくく、我々にはもどかしさが残る。そんな中、うやむやを晴らす確かなキーワードを手に入れた…「ネット社会」である。
■さっそく、夕方のニュース…テレビ朝日では小宮悦子が「あらためて、ネット社会の闇が…」と紋切り型コメント。フジテレビでは「小学生のインターネット事情」なんて特集を流し始めた。メディアとしては、制約された情報の中から、この事件を視聴者に「わかりやすく」説明しなければならない。だからって「ネット社会」に結びつけるのは安易すぎる。
■不可解な事件が起きると、それを読み解くキーワードとして、「ネット社会」を登場させる。ネットで知り合った同士が「集団自殺」をした際にも「ネット社会の闇」というフレーズが多用された。社会的な不安を安定させるために、「ネット社会の闇」というブラックボックスに事件を追いやるのだろう。これは「生命の大切さを教育すべき」と主張すること以上に、空虚で意味のない行為だと思う。
■今回の場合、顔見知り同士なわけで「ネット社会」という語を当てはめることが妥当とは思えない。なぜ気に入らない書き込みが殺人へと飛躍したのかを突き詰めれば、「コミュニケーション能力の欠如」というアプローチにとどめておくべきだろう。


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