2003年1月22日水曜日

ぼったくりの構造

 以前、コンタクトレンズを割ってしまったので、コンタクト屋に行った。不幸中の幸いで、保障期間中だったので新しいコンタクトは無料だった。
 「会員証と保険証を出してください」店員が言った。すぐにコンタクトがもらえると思っていたので、保険証など持っていようはずもない。私は聞こえないふりをして、会員証だけ出した。すると…
店員「保険証も出してください」
私「保険証が必要なんですか?」
店員「はい、検査しますので…」
私「でも、何も悪いとこありませんよ」
店員「いえ、検査しないと渡せないことになってるんですよ」
 …これはコンタクト屋と眼科の相互補完的かつ悪質なボッタクリ手法である。経営者が同じか、キックバックがあるに違いない!そう確信して、困惑してるふりをして、しばらく考え込む。
店員「保険証をお持ちでないなら、今日のところは実費で払っていただいて、後日持っていらっしゃった時にお返しするという形になります」
私「そうですか…じゃぁ、そうします。で、いくらですか?」
店員「8000円です」
 …って、高くない!?
 検査とは名ばかりで、バイトっぽいねーちゃんが視力を測って、変なおばちゃん先生に目玉を見られただけである。「何でこんなんで8000円必要なんだ!」という怒りを抑えきれなかった。(もちろん「保険証を取りに行かないといけない」といういことのやつあたりであることも否定はできないが。)
 おかしいぞ!
 普段は保険証使ってるから気づきにくいが、こんなに医療費が高いのはおかしすぎる。異議申立てしたい気持ちでいっぱいであるが、泣き寝入りするしかない。
 このように、通常、保険証使ってるから自分が気づかないし、損した気にもならん。表面では安いから、たいしたことない病気でも行く。いや、むしろ、「保険料払っとるから、行かな損」的なノリではないだろうか?これでは医療費の抑制もできない。国民には保険証なかった時の実費を考えて欲しい。我々の税金でまかなってるということを忘れがちになる。これは巧みなシステムである。保険料として先に取っておき、国民の負担感を軽減しようとしている。所得再分配を悪用してモラルハザードをおこしている。そして、甘い汁を吸っているのは誰か?答えは簡単、日本医師会とその下僕達である。
 今回の医療改革はこうした国民に負担を実感させるためにも効果があったはずだ。患者、医療機関、保険者の三者が痛みを分かち合い、医療費の急増で破たん寸前の医療保険制度を、持続可能なものへ再構築する。それが改革の主眼であった。
 最後までもつれたのは被用者保険での勤め人本人の自己負担を現行の2割から3割に引き上げる案だ。
 結局、「必要な時に2割から3割に引き上げる」と引き上げる開始時期が玉虫色で、決定を先送りした。族議員は「まず保険料を引き上げるべきだ」と本人負担引き上げにはあくまで反対した。窓口での負担が増えれば受診抑制につながるという日本医師会の反発を受けてのものだ。
 97年9月の健保法改正でサラリーマン本人の自己負担が1割から2割に引き上げられた際、実際に受診を抑える動きが出た。このように、彼らはサラリーマンの立場から負担増に反対したのではない。日本医師会とその意向を受けた厚生族議員の激しい抵抗で、「改革」はすっかり骨抜き、先送りされた。
 また、高齢者医療制度の対象年齢が70歳以上から75歳以上に引き上げられるのに伴い70〜74歳患者負担を2割に引き上げるという当初の案を、1割定率に後退させた。高齢者を一律に「経済的な弱者」とみなし負担は最小限度に…これでは世代間の不公平感は増すばかりだ。毎年一兆円規模で膨れ上がる医療費を抑制するのは難しい。
 問題なのは、患者の「痛み」と比べ、医療機関への「痛み」が甘すぎることにある。 医療費抑制の切り札とされた「伸び率管理制度」の導入も、結局見送られた。医療機関に支払う診療報酬も引き下げの方向は打ち出したが、具体的な引き下げの幅や中身は不透明である。
 診療報酬のうち、薬価の引き下げは固まったものの、「聖域」とされてきた診察費や手術費など診療報酬本体の引き下げを実施して初めて、医療機関の「痛み」と言える。
 既得権に、大胆に切り込めていない。日本の医療には無駄が多い。過剰な検査や投薬、長い入院期間など、早急に見なおすべき点が多い。医療側も無駄を生む体質の改善に本気で取り組まねばならない。 患者にだけに痛みを強いる改革では、「三方一両損」と呼ぶにはとても無理がある。
 年末には診療報酬改定が山場を迎えるだ。「引き下げ」という方向は打ち出した。老人医療費の総額抑制、医療費抑制のために、思い切った診療報酬の引き下げをすべきだ。しかし、このままでは改革が進むのだろうか、そういう不安感が強く残る。
さらには、需要抑制だけでは対処できない。供給サイドこそ問題なのだ。小泉改革の経済政策としての構造改革では供給サイドに問題がある、と誤診をし、医療制度改革では需要サイドをばかり改革するのだ。全くの逆である。
 前回の自民党の総裁選で小泉氏が総裁になったことを非常に残念に思った。それは、彼の政策は景気を悪化させるという懸念もあったが、それ以上に、自民党が与党であり続けることが伸びたことだ。 が、正直を言えば、全く期待がなかったというわけでもない。小泉氏の「反自民」にだけは少し期待ができた(しかし、それらは幻想であることが徐々に理解をさせられたが)。道路公団のプロセスの従来どおりの不透明さ、そして、今回の医療改革である。「三方一両損」のはずが、結局は看板倒れである。これこそが小泉改革の現実か?
「口は一つだが、耳は二つある」靖国神社参拝後の小泉総理の言葉だ。「じゃあ、舌は何枚?」というツッコミが入ったが、小泉改革なるものの最近のありさまを見ていると、「二枚舌説」なるものが現実味を増しつつある。彼は理念の人ということで通っているわけだが、それを疑う必要がある。小泉氏は「恐れず、ひるまず…」と言うが、いわゆる抵抗勢力には恐れていやしないか?妥協、妥協している結果「痛み」を押し付けているのは「弱者」だけということになっている。
 小泉改革は「がんばった人が報われる」社会を目指すと言う。しかし、いくら格差容認と言いえども、「がんばってない」日本医師会への度を越したVIP待遇は正当化できまい。この分野こそ「聖域」とせず、合理化すべきではないか? 抵抗勢力に反対されるようなら、「内閣信任案」をつきつけて、「改革に協力して政党を取る」か、「抵抗勢力としての信念を取り、野に下るのか」を選択させればいい。抵抗勢力は信任せざるを得ないだろう。なぜならば、与党に居座るためには「悪魔」とも平気で手を組むのが自民党であるのだから。
≪おまけ≫
↑の文で日本医師会をあげた。支持団体があることをどうこう言おうとしているのではない。自民党の一党支配の結果、この分野はず〜っと聖域とされてきた。これはかねてからの持論だが、業績投票が可能で、与野党政権交代が可能な政治システムの実現が必要だ。「民主党がんばれ!」そして、国民には「民主党にもチャンスを…」と言いたい。
 ここで指摘しておかないといけないことがある。私は民主党の支持者ではない、ということだ。そして、自民党が嫌いというわけでもない。この点を誤解されがちだ。
 我々国民は政権担当能力のある政党を意図的に育てる必要があるのである。「意図的に」である。自民党が一党支配を続けるから、支持団体を持つことの弊害が顕著になっているのだ。政党である以上、これはやむおえないことである、と私は考える。このマイナスを補うためにも、断続的に与野党交代を繰り返す必要があるし、偏った政策には国民が業績投票をし「NO!」と言える状況を作り出さねばならない。
 最近では民主党も内部分裂し、政界再編が近づいているように思える。しかし、安保の尺度で政界再編をするのは、ただ冷戦構造へと時計の針を戻すだけではないか?


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