2002年1月13日日曜日

筑紫哲也・プロ野球

筑紫哲也がプロ野球と決別していたってんだから、ひとまずメモ。
筑紫哲也「さよなら職業野球」(週刊金曜日,第329号 2000.9.1)
 当然、シーズン中はプロ野球のファンとなる。年に何回かは球場にも足を運ぶ。
 この長年の習慣が、今年、私から消えつつある。まるで憑きものが落ちるように、潮が退いていくように、野球そのものに急に興味が失せつつある。ひいきの広島カープのスコアに目を向けることはあるが、悪いことに今年は主力選手が次々と故障で脱落していて、興味をつなぐのがむずかしい。
 こんなものに自分の関心と人生の一部を費やしてきたとは、私は何という阿呆だろうと気付かせてくれたのは巨人軍のおかげである。二軍でさえ下位球団より強いかもしれないほどの選手を金にあかせて集め、たとえばメイが阪神タイガースを手玉に取り、江藤がカープを決勝打で沈めるといった具合に、自分がいたチームをたたき伏せる光景は「興醒め」の一語に尽きる。チームを補強するのは企業努力として当然のこと、弱肉強食は世の常なのだと聞いたような論をまた聞かされるとなおさらである。その通りだろう。だが、「世の常」など見るためにスポーツなど要らない。日常のなかに、そんなものはいくらでもあるのだから、スポーツはそういう「世の常」をしばし忘れ去り、日常では見られない夢を見るためにあるのだ。なかではできがよいスポーツとは言えない野球の数少ないとりえは、弱者も時には強者に勝つ確率が高いことだ。それをしも、弱肉強食を構造化して抹殺してしまって何が残る。
 弱肉強食は世の常――というセリフ、よそでも近ごろよく聞くようになったと思ったら、何のことはない。「世界化」のとうとうたる流れを正当化する時の金科玉条だった。そう言えばどちらも原産地はアメリカで、悪しき国産化を遂げている点で共通している。



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