2004年6月25日金曜日

北村肇(週刊金曜日)

北村肇
「生命」や「人間」の深遠さに思いがいたらないジャーナリストは、報道に携わる資格がない(週刊金曜日「一筆不乱」)
 足の小指を動かせますか?
 耳を動かせますか?
 できた人は、今度は胃を動かしてみてください。

 ジャーナリスト志望の若者を相手に講演を頼まれたときは、こんな戯れ言をけしかけることにしている。大抵は、みんなきょとんとしている。
 
 解説はこうだ。
「みなさんは無意識に、自分の肉体は自由にコントロールできると思っていませんか。でもそれは手足などごく一部にすぎません。内臓や、まして細胞は、自分のまったく手の届かないところにあるのです」
 
 あとは語らない。自分で考えて欲しいから。無論、本当に告げたいのは、「肉体だってそうなのだから、心はもっと不思議な世界。つまり『人間』は、奥の深い、それ自体が『神』と言ってもいいような存在なのだ」ということに尽きる。だからこそ、ジャーナリストは常に、「人間」に目を向ける必要がある。「生命」にとしてもいい。
 
 たとえば、「イラクのファルージャで500人の市民が殺された」と報じるとき、記者は「500人の生命」ひとつひとつに思いを寄せることができるだろうか。「多国籍軍参加」のニュースの向こう側に、大国が引き起こした戦争によって、これからも失われるであろうイラク人の生命を意識できるだろうか。要は、そういう問題なのだ。

 ときとして、官僚や政治家は、外交や政治をゲームとしてとらえる。そこには「人間」も「生命」もない。あるのは「勝つ」ことの興奮ばかりだ。ジャーナリストの仕事は、絶えず「人間」を念頭に置いたうえで、そんな彼らをいさめることであり、その実態を市民に明らかにすることである。

 イラク戦争報道も参院選報道も、「生命」の視点がなくては話にならない。にもかかわらず、一緒にゲームに興じるマスメディアが多すぎる。市民をコマとしか思わないジャーナリストがいたら、それは官僚や政治家より始末に負えない。



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